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「正しい日本語」は存在しない


 いわゆる「正しい日本語」というのは、テレビを見ても新聞を読んでもよく耳にする言葉だと思います。
 私はその言葉が大嫌いです。
 これに類する、「美しい日本語」「伝統的な日本語」とか、反対の意味で使われる「誤った日本語」「日本語の乱れ」「日本語力の欠如」あるいはそれらに対する煽り文句「日本語が廃れる」「日本語もしゃべれないのか」なんて言葉を耳にするたび、そんな言葉を平気で口に出して恥ずかしくないのかと問い正したくなるくらい嫌いです。
 いや、もはや促音をつけて言い直してもいい。

 大っっっ嫌いです。

 
 結論から言うと日本語は乱れもしないし廃れもしないし、誤ってもいないし正しくもないし美しくもありません。
 このページはこまごまといくつか個別の事例を取り上げていますが、総括すれば上記のような私の持論を表明するために作られています。
 あくまで私の仮説が含まれた私説でありますので、異論反論は大いに結構です。むしろ積極的に歓迎します。
 あと小説家の御影瑛路インスパイアなので、すみつきかっこ【 】を多用します。ウザいかもしれませんがインスパイアです。本当は強調用の傍点もつけたかったけどやりすぎなので下線で代用します。

 
 さて。
 表題に「正しい日本語」という言葉をあげました。これが最も典型的であるので最初にこの言葉について言及したいと思います。
 世間でしょっちゅう言われる「正しい日本語」です。
 さあ、思い出してみましょう。
 この言葉が使われた文章って、何を言いたい文章ですか。
 おそらくほとんど例外なく、誰かが言った言葉を「正しくない日本語(あるいは乱れ、廃れ、誤用など)」として批判することを意図した文章ではありませんか。
 これを踏まえて、冷静に、落ち着いて、論理的に考えてみましょう。
 【正しい】という言葉が、必ずと言っていいほど【間違い】とセットで使われる。
 誤を示さなければ正を示すことができない。
 ということは、ここで使われる「正しい日本語」という言葉は「ある一つの言葉について正しいと言えるもの」であって【日本語の全て】を意味するものではありません。
 「ある一つの言葉について正しいと言えるもの」を「正しい日本語」と称し、それに反するものを批判する。これはどういう行為かというと、数学に置き換えて言えば、「1+1=3」という誤った計算をした者に「正しい数学を知らないのか」云々と偉そうな講釈を垂れた上で「1+1=2」という正解を示すことにほかなりません。
 失笑モノですよね。確かに「1+1=2」ですけど、それを言うがために「正しい数学」だなんて、話を大きくしすぎです。
 前述のとおり、「正しい日本語」という言葉は「ある一つの言葉について正しいと言えるもの」という狭くて小さい意味で使われているので、それを指摘するために「日本語」、日本語という言語全てを示す言葉を使うことは不適切であると考えられます。
 どうして「日本語」って言葉が出てきちゃったんですかね。



 
 
 続いて、「正しい」の方についてです。
 ある言葉について「正しい日本語を使え」などのように批判を加える者がいたとして。
 「正しい」の根拠って何なのでしょうか。
 例えば「1+1=3」という誤った計算をした人がいたとして、それを正すにはりんごでも使って説明すれば誰もが簡単に納得するでしょう。しかし「正しい数学は1+1=2である」などと言ったところで、何がどう正しいのかは理解のしようがありません。これではただ単に「俺が正しい、おまえは誤っている」と言ったに過ぎません、それが事実であれ説得力も建設性もないくだらない指摘です。
 「正しい日本語」も同じく、自分の意見が正しいと言っただけであって何故正しいのかという説明は一切含まれていません。言葉の正しさは何をもって説明されるのでしょうか。

 
 そもそも、簡単に「正しい日本語」って言いますけれど。
 日本語って、まだ完璧には解明されていないんですよね。 
 研究はとてつもなく高度なところまで進んでいますが、それでも全てを正確に異論なく網羅的に解説しきることは今現在も不可能とされています。
 もしもそれが解説される日が来たならば、それはつまり【日本語の全て】を説明し明文化することができたことになります。
 【日本語の全て】は、日本語を正確に異論なく網羅的に明文化した規定になるでしょう。これが仮に存在するのならば、【日本語の全て】に反するものは全て規定違反です。
 【日本語の全て】は完璧な規定なので、【日本語の全て】の存在は日本語以外の言語を母語としている人が日本語を勉強するにあたって極上の福音になります。なぜなら、【日本語の全て】をマスターしきれば日本語を完璧にマスターできることになるからです。
 しかし、現実には。
 日本語は解明されていません。【日本語の全て】は明文化されていないから、日本語以外の言語を母語とする人が日本語を勉強をしたうえで何年も何年も身を置いて日常的に日本語を使っている人でさえ、どこかで「あ、外人さんだ」なんて思われてしまうような小さな小さな違和感を母語話者に与えてしまうことが往々にしてあります。
 日本語母語話者が英語やその他の言語を勉強する時もそうですよね。
 例文に出会って単語を覚えて文法を勉強して例文に出会って単語を覚えてを繰り返していく地道な作業を重ねることでしか、母語以外の言語を習得する道はないわけですから。

 
 余談ですが。
 日本語は完璧には解明されていないとか、【日本語の全て】は存在しないとか言いましたが、我々は頭の中では自分の母語のシステムを全て完璧に解明し理解し運用しています。日本語母語話者であれば【日本語の全て】が頭の中に存在しています。
 でも、それを体系的に解説することができないのです。
 設計図を持っているのに設計図を書き起こせない、とでも言ったら良いでしょうか。
 母語話者は誰しも「その言語の【全て】」を知っていてそれを元に不自由なく会話を成立させることができているのに、それを解明することができないのが言語学の魅力の一つといえます。
 そしていわゆる「誤用」は、大勢の人の頭の中にある【日本語の全て】に、わずかな解釈の幅ができた時に生まれます。Aさんの解釈ではOKなことがBさんの解釈ではダメ、というような場合です。でもこういうような場合でも、Bさんは大いに違和感を感じるかもしれませんが全く意味が通じないというわけではありません(そしてBさんがAさんに「正しい日本語を使え」って言ったりするわけです)。
 逆に言えば、コンピュータのプログラミング言語は人間が作った言語です。例えばC言語なら【C言語の全て】が存在します。だからいわゆる「誤用」が流行することは絶対にありえない(というか誤った記述は一切通用しない)し、【全て】を知っていれば自由自在に記述することができます。まあプログラミング言語を用いて人間同士が意思を疎通することはできませんが。

 
 余談がすぎました。
 そういうわけで、【日本語の全て】という明文化された規定は存在しません。
 では、誰かが言った言葉が「正しい日本語を使え」とか何とかと批判された場合、【日本語の全て】が存在しないのに「正しい」「正しくない」などと誰が何を根拠に決定したのでしょうか。
 さあ考えてみましょう。「正しい」の根拠は何ですか。
 違和感を感じたことが根拠ですか。「違和感=正しくない」とは限りません。
 辞書が根拠ですか。辞書には著者が正しいと思ったことが書いてあるだけです。文法には疎いし。
 テレビで「正しくない」って言った人が根拠ですか。「偉い人が言ったこと=正しい」というのは単なる個人崇拝です。
 昔の言葉が根拠ですか。あなたが知っている「昔の言葉」は「昔の昔の言葉」から比べれば間違いです。つまり「昔=正しい」は矛盾しています。
 ……こんなもの、どれもこれも「考え方の一つ」に過ぎません。「根拠」と呼べるほどの普遍性も説得力も存在しません。
 もちろん、「考え方の一つ」を良いと考えるか悪いと考えるかは本人の自由です
 ですが、自分と異なる考え方をしている他人に対して、自分の考え方を「正しい」と呼称した上で押し付けるのは人間として非常に恥ずかしい行為です。ここでの問題は言葉の使い方という軽い話ですが、根底に相手の人格を否定する根性が見え隠れしていませんか。
 これが「正しい日本語」の正体です。
 やめましょうよ、こんな恥ずかしい言葉を使うのは。
 

 ところで、「正しい日本語」がありえないという話をすると、「だからと言って無秩序でいいというわけではない」のような反論をする人もいます。
 言語について何も考えたことがない証拠です。
 明文化されていない【日本語の全て】は、母語話者の頭の中に存在しています。
 誰かが正しさを決めなくとも、言葉は【日本語の全て】に基づいて自然に運用されています。誰かが「正しくない」と決めつけた言葉であっても、その言葉の成り立ちに美しさを感じることすらあります。ちゃんと理屈を伴って使われているからです。
 よく「日本語は変わる」という考え方に対して「変わるからといって正しくないものは正しくない、正しくない変化はさせるべきじゃない」みたいな反論をする人がいます。しまいには「だったら今正しいものを決めてハッキリさせよう」とか言い出す人もいます。ずいぶんなお節介さんです。
 これにはとても重大な問題が起こります。
 それは「正しい日本語」を誰が決めるのか、と言う問題です。前述の通り全母語話者が平等に【日本語の全て】を知っていて、それを全母語話者が自分の言葉として使っているのです。そもそも人間の言語とはそういうものです。それを正しいと決めるのは誰か。そんな大それたことを定義する言語学者はいません。いるとしたら「家業は三代目でダメになる」という言い伝えをそのまま体現している金田一秀穂さんのような方でしょうか。祖父と父は立派だったんですが孫は平気で「正しい日本語」って言葉を煽っていますよね。よく言語学者を名乗れるなと呆れを通り越して感心してしまいます。
 誰かが「これが正しい日本語だ」と決めた言葉があったとします。すると、正しくない日本語と決められた言葉を使っている人は自分の使っている唯一無二の言葉が正しい日本語ではないと言われたことになります。
 ということは、「正しい日本語」って決めつけた人のせいで日本語が分裂してしまいますよね。そして日本語母語話者のうち「正しくない」といわれた言葉を使っていた人は母語を否定されたことになるのです。
 そんなことを決めつける権利なんてもちろん個人には無いし、学者にだってありません。というか言語学者であればそれがイケナイことであることくらい理解していて然るべきです。
 結論を言えば、使っている言葉の正誤を決める権利なんて誰にも無いんですよ。母語話者全てのものである日本語のあり方を、一部の派閥や増して一個人が勝手に決めるなんて許されるハズがないのです。そもそも正誤を決める必要がないのです。日本語として通じるなら日本語、ただそれだけでいいのです。。

 
 もっとも、言うまでもなくそれはTPOをわきまえた上での話です。何でもかんでも外来語(カタカナ語)ばかり使って文を書けば読み手にはうざがられます。目上の人にくだけた言葉づかい、公的な文書に助詞の省略やら抜き言葉を使えば、相手にそれなりの悪印象を与えます。そのくらいのことは弁えるべきです。弁えた上で自由に言葉を使えばいいのです。
 そして、他人からの言葉を受け取ったとき、どう思うかも受け手の自由です。
 他人の言葉づかいにアレコレ注文を付けるのはお節介です。お節介と言えば聞こえはいいですが、要は考え方の一つに過ぎない自分の考えを相手に押し付けているだけですし。

  
 日本語について考えるという作業は、誰かが言った一つの言葉や表現を正しいだの正しくないだのと論ずることではありません。
 誰かが言った言葉に違和感を感じたなら、その違和感の正体が何であるかを考え、違和感を感じるその言葉がどうして使われたのかを考えることによって日本語の構造、性格を解明することが本当の意味での日本語研究です。
 違和感を感じたり昔は使わない表現だったから誤りだ、という短絡的な思考は考えているようで何も考えていません。誤りなら誤りで理由があるハズですが、その考察を飛ばして「誤りだ」という結論へ直結するのは単なる【思考停止】です。まして「辞書が」「テレビに出てた先生が」なんてのは論外。
 日本語研究者は考察を経て【日本語の全て】へ、ロマンチックに言えば【日本語の真理へ近づこうとする観測者】です。
 この壮大でロマンチックな日本語研究を差し置いて、考え方の一つに過ぎない自分の意見を「正しい」、一つの言葉を題材にしているだけなのに「日本語」だなんて言わないで欲しいと思います。
 
 

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