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 カタカナ語が増えても日本語は廃れない

(「日本語と表記(あるいは文字)」みたいな副題をつけてもいいかもしれません)
 ※先に断っておきますが、本稿でいう【和語】は「やまとことば」と全く同義です。

 いわゆるカタカナ語、すなわち【カタカナで表記される外来語】が氾濫しています。
 従来日本語にあった言葉まで何でもカタカナ語にしたがるので、日本語が廃れるとかいう声まで聞かれます。

 では考えてみましょう。
 カタカナ語が氾濫することによって従来からの日本語は淘汰されているのでしょうか。

 結論から言ってしまえば、カタカナ語は【カタカナで表記される外来語】で、【カタカナで表記される外来語】は日本語なので、カタカナ語が増えることはすなわち日本語が増えることです。そして昔からあった日本語を置き換えることも稀です。この点から言えば、カタカナ語が増えることは日本語が栄えることを意味します。
 カタカナ語が氾濫するという【現象】は、日本語が廃れる【現象】ではないんです。栄える【現象】なんですよ。

 では結論より先に来るべき、考察を始めましょう。
 そもそもカタカナ語って何でしょうか。
 日本語に含まれる単語は、その由来を大きく三種類に分けることができます。
 【和語】【漢語】【外来語】です。
 そのうち【和語】は、純粋な日本語です。大和言葉ともいいます。漢字表記もできますが送り仮名がつくようなものはこの類です。
 【漢語】は中国語から輸入された言葉です。漢字で表記されます。
 【外来語】は中国語以外の言語から輸入された言葉です。多くはカタカナで表記されますが、古く広まった「天ぷら」のように漢字やひらがなが充てられる場合もあります。

 この三種のうち、【和語】以外は日本語以外の言語から輸入された言葉です。このような言葉を【借用語】といいます。
 さて、よく考えてみてください。
 カタカナ語批判は、【外来語】で、かつカタカナ表記された言葉を批判するものです。
 日本語以外の言語から輸入された言葉は【漢語】と【外来語】なのに、どうして【外来語】だけが、それも【カタカナ表記された外来語】だけが目の敵にされなければならないのでしょうか。

 例えば。
 【和語】は動詞や形容詞に多いのですが、その中で動詞「書く」を取り上げてみましょう。
 【和語】の「書く」は今も広く使われる、人間の基本的な動作を表す単語です。
 そして「書く」と意味が似ている言葉に、【漢語】の「書写する」「記述する」「記載する」などがあります。
 さて、【和語】の「書く」と意味を比べてみてください。
 【漢語】の例は、「書く」という動作を含んだ物事を示していますが、単純に「書く」よりも意味が限定的になっていませんか。
 「書写する」は、字を美しく(あるいは芸術的に)「書く」ことを意味しています。たぶん書道をやっているのでしょう。
 「記述する」は何かをノートや本などに「書く」ことによって何かを伝えようとしていますよね。
 「記載する」は、帳簿などに「書く」ことによって何か記録や証明を残そうとしています。
 いずれも「書く」という動作を伴い、それ以上の意味を含んだ言葉です。
 そして、いずれも決して【和語】の「書く」という単語を廃れさせるものではありません。
 では、【外来語】はどうでしょう。
 例えば今はやりのTwitterに自分の思ったことなどを載せることを、「ツイートする」といいます。
 評論家などがルポタージュを「書く」ことを「ルポする」とも言います。
 どうでしょうか。
 はたして純粋な日本語といえる【和語】の「書く」を、これら【漢語】【外来語】は淘汰してしまったのでしょうか。していませんよね。
 さて、【漢語】と【外来語】の間に何か違いがあるのでしょうか。
 そして【外来語】が増えたことによって何が廃れたのでしょうか。

 そんなものは単なる被害妄想です。

 ちなみに「書く」という動詞とほとんど同じ意味の英語「Write」は日本語にはありません。「書く」と全く同じ意味で「ライトする」という表現を、使った人はいるかもしれませんが定着したとは言えません。
 どこかのお節介さんが「カタカナ語の氾濫で日本語が廃れる」などと嘆かずとも、不必要な言葉を取り入れて元々ある言葉を置き換えるなんて非合理的なことをしないように日本語母語話者は無意識に取捨選択をしているんです。
 こんなことが無意識に行われている事実こそ、私は日本語の美しさだと思います。まあ解らない人に感じろとは言いませんけど。

 但し。
 先ほど私は【漢語】と【外来語】の間に何か違いがありますか、といいましたが。
 今現在私は一つ違いに気づいています。もちろん学者さんたちはとっくに知っているのだとは思います。
 【漢語】や【外来語】は名詞としては大量に取り入れられていますが、活用を行う動詞(終止形の時末尾がuの音で終わる)や形容詞(終止形の時語尾が「い」で終わる)にこれらの言葉はたぶんほとんど存在しません。
 【漢語】や【外来語】を動詞として使う時には、活用せず後ろに「する」をつけます。漢語にせよ外来語にせよ「○○する」というような言い方をします。そして「する」の部分だけが活用します。
 形容詞にする時には、活用せず後ろに「な」をつけます。「○○な」という言い方になります。そして「な」の部分だけが活用します。
 ここまではどちらも全く一緒なのですが、一つ。
 【和語】は語頭に「お」などをつけて敬語的表現ができます(例:「立て」→「お立ちください」)。
 【漢語】は語頭に「ご」をつけて敬語的表現ができます(例:「起立しろ」→「ご起立ください」)。
 でも、【外来語】は。
 たぶんですけど、「お」「ご」をつけて敬語的な表現にすることはできないでしょう。そのような例があったらご一報願いたいです。
 「おフランス」とは言いますけど、これも単なる敬語表現とは意味が異なりますよね。意味としては「おバカ」の「お」に近いです。

 ちなみに話が横道にそれてしまいますが。
 元々日本語ではない言葉、例えば英語が「カタカナ語」となった場合、その言葉は英語ではなくて正真正銘の日本語です。カタカナ語ばかりの文に出くわして「日本語で言え!」みたいなことを言う人もいますが、全部日本語なのです。なぜかと言いますと、元々は英語だった言葉を音写してカタカナ表記したカタカナ語は、英語にカタカナ表記は存在しませんのでカタカナ表記になった時点で英語ではなくなります。そしてカタカナ表記したものを日本語の発音に則して読むので発音も英語とは似て非なるものになります。表記も発音も英語ではなく日本語のものになっている。もう疑う余地もなく日本語ですよね。元々が中国語だった言葉を日本語に輸入した漢語が日本語なのと全く同じ理屈です。帰化してしまえば日本語なのです。
 なおカタカナ語批判の一環として、よく「元々の意味と違うからこのカタカナ語は誤用だ!」みたいなことを言う人もいます。
 ですがこれは大きな誤りです。
 上記の通りカタカナ語は日本語なのであって、他言語での意味と違うことは何の問題もありません。むしろ元の意味と違うのであればなおのこと、そのカタカナ語は元の他言語ではなく正真正銘の日本語であるという証明になります。
 加えて言うなら、中国語が日本語に帰化する際に意味の違いが生じた言葉はいくらでもありますが指摘されるのはいつもカタカナ語だけ。

 くだらない私説と余談が過ぎましたが。
 こういう話になってくると、「カタカナ語批判って何なんだ?」ということになってきます。
 カタカナ語だけを批判する理由はなんですか。
 カタカナ語が増えると古来の日本語が廃れるからですか。廃れません。
 「お」「ご」をつけられないからですか。違いますよね。
 元の他言語と意味が変わったからですか。漢語もそうなのに漢語は批判しませんよね。
 カタカナで書いてあるからですか。たぶんそうなんでしょう。

 新しい言葉が続々と出てきて戸惑い、それらがことごとくカタカナで書かれていること。漢字を使っていないために、知らない言葉に出会った時に文字から意味を類推できないこと。このあたりがカタカナ語批判の根底なのではないでしょうか。
 前者はただの八つ当たりですが、後者の文字から意味を類推できないことは、確かにカタカナ語の短所だと思います。
 でもだからといって「カタカナ語は良くない」だけで思考停止して、「カタカナ語が増えてるから日本語が廃れる」とまで言い出すのは明らかに地に足がついていない飛躍した話です。
 そんなことだから「日本語は廃れる」と言っておいて、元々日本語ではない【漢語】で作られた言葉まで「古来からある日本語」と称するトンチンカンな話になるのです。
 【漢語】はつまり中国語です。中国語から言葉を持ち込むのはOKで、それ以外の言語から持ち込んだ時だけ「日本語が廃れる」だなんて、理屈が通りませんよね。

 ちなみにですけど。
 本来の日本語とでもいうべき【和語】に新しい言葉はありません。
 【和語】で新しい言葉を作ることはまず不可能なのです。
 【造語力】とかいうらしいですが。
 日本語において、新しい物事や概念を表す言葉が必要になった時には、もうずいぶん昔からずっと中国語からの輸入に頼っていました。
 それが【漢語】です。
 その過程では、本来中国語になかった言葉まで中国語風に作ってしまう例もありました。
 いわゆる【和製漢語】です。
 カタカナ語批判で、よく「カタカナ語は元来の外国語と意味が違っているからよくない」というようなことを言う人がいます。
 いわゆる【和製外来語】を批判したものでしょうけど、それはカタカナ語に限った話ではなく【漢語】においてもずっと昔から日本語において行われてきたことです。
 ついでにいうと、日本語に取り入れる前と後とで意味に違いが生じるのはあらゆる借用語に起こることです。そして違いが生じた以上、それは【元の言葉】ではなくれっきとした【日本語】です。
 このように、巷でよく行われているカタカナ語批判は、全く同じことを【漢語】にも言うべきなのにカタカナ語だけの批判に終始することがほとんどです。

 それと。
 カタカナ語は表記から意味を類推することができない、と言いましたが。
 文字に意味を含んで表記される【表意文字】漢字に対し、ひらがなやカタカナは音に対応して表記される【表音文字】で意味を表すことをしません。だから【外来語】特にカタカナ語は文字から意味を類推することができないのです。
 そして【漢語】が漢字で書かれるのは当然です。
 では【和語】はどうでしょう。
 例えば「書く」という【和語】は、その動作を示す【和語】である「かく(kaku)」に、同じ意味を表す漢字「書」という字を当てています。そして「書」という字の読みに存在しなかった「か」という音を当てて、送り仮名をつけて「かく」と読ませています。
 これがいわゆる訓読みですが、当たり前のように行われていますけど無茶苦茶なことですよね。
 同じことを、英語と和語の間でやってみましょう。
 writeという英語の文字を取り入れ、「かく」という言葉にあてます。
 そして「Writeく」と表記して「かく」と読ませているのです。
 もう無茶苦茶ですよね。
 でも【和語】に漢字を当てることによって字から意味を類推できること、文中においては漢字を混ぜることによってひらがなで書かれる助詞などと語の区切りを明確にしやすいことなどで、こんな無茶苦茶なことが当たり前に行われています。ちなみに日本語は英語のような【分かち書き】をしません。漢字とひらがなを混ぜることで語の区切りが明確になりやすいからです。
 ただ、何度も言いますが【和語】に漢字をあてることは無茶苦茶なことなので。
 中には、【和語】は全てひらがなで表記するべきだという学者さんもいます。
 そうなると【和語】は「ひらがな語」で【漢語】は「漢字語」で【外来語】はほとんどが「カタカナ語」になってすっきりするかもしれませんね。
 ただ、そうなるとさっき言った利点、漢字と混ぜることによって文中の語の区切りを明確にしやすい点を捨てなければなりません。
 ためしに、この文はこれ以降、すべての【和語】をひらがなでかいてみましょうか。
 ほら、段々よみづらくなってきたのではないでしょうか。
 ところで。
 【和語】に漢字をあてることによってひとつ問題がでてきています。
 それは、もともとひとつの言葉であったものに、何とおりも漢字をあてて何とおりも意味をつくってしまったことです。
 たとえばおなじ「わかる」という言葉に「解る」「分かる」「判る」という表記が存在するような問題です。
 こういうのを統一できないところが言語のおもしろいところでもあり、むずかしいところでもあります。
 誰もが言葉のつかいてですから、つかいての数だけつかいかたやかんがえかたがあるのです。
 もちろん、「解る」「分かる」「判る」なかのどれかが「正しい」ということはありえません。まえにテレビで「分かる」がただしいといっていた学者さんがいましたが、それも「わかるという動作は脳内で分別をつける作業だ」とかあとづけの理屈だったきがします、よくおぼえていませんけど。むかしはどれをつかっていたかといえば、平安時代にはすでに訓読みがあったようですが、それもさらにさらにさかのぼればどれもつかっていなかったわけですし。
 もともとはつかっていなかった点、いくとおりもの表記がうまれている点など、問題点もあります。ですが漢字を併用することにより文字から意味を類推できる点、語の区切りがわかりやすい点などの利点があるので、わたしは【和語】に漢字をあてることがよくないとはおもいません。
 ただ、もしも【和語】に漢字をあてる習慣がなかったら。いいかたをかえると、もしも漢字に「訓読み」が存在しなかったら。【和語】がすべてひらがなでかかれていたら。
 おそらくカタカナ語がもじから意味を類推することができない欠点は、欠点にもならなかったのではないでしょうか。
 あるいはカタカナ語も【和語】のように、意味のにている漢字をあてて表記していたらどうなっていたのでしょう。
 もしもそうであったならば、カタカナ語批判は存在しないかもしれません。

 余談がすぎましたが、いずれにしてもカタカナ語批判に正当性はありません。カタカナ語がダメなら【漢語】もダメだし、カタカナ語がふえて「日本語が廃れる」なんてこともありません。
 しらない言葉ばかりがどんどんふえていらだつきもちはわかりますけどね。でもぎゃくにいうと、結局カタカナ語批判の根底はそれしかないようにわたしにはおもえます。

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