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 伝統的な日本語って何だ


 

 日本語について述べる時、「正しい」「美しい」と並んでよく使われるのが「伝統的な」という言葉です。
 「伝統的な日本語」って、何でしょうか。
 


 【カタカナ語】や【ら抜き言葉】のように、旧来の日本語になかった言葉を批判する時によく使われるのが「伝統的な」という言葉です。
 こういう時に使われる「正しい日本語」と同じく、「伝統的でない」ものを批判することでしか使うことのできない相対的な「伝統的」です。
 簡単に言えば、新しい言葉が出てくると古い言葉が廃れるので伝統を破壊するからよくないとか、そういう理屈です。
 伝統的だからといって、何でもかんでも守ればいいというものではないと思うんですがね。「伝統=残す」だけでは思考停止です。
 


 さて。
 新しい言葉と比較して、旧来の言葉を簡単に「伝統的」と言いますけれど。
 旧来の言葉って伝統的なんでしょうか。
 そんなわけないでしょ。
 長い長い年月を経て言葉は変化しています。
 平安時代の古典作品(中古文学)と鎌倉時代や室町時代の古典作品(中世文学)を読み比べると全然違います。格段に読みやすいです。江戸時代の古典作品(近世文学)はもっと読みやすいです。明治時代になるとほとんど辞書が要りません。
 で、安易に「伝統的」と言ってしまう人が使っている伝統的な言葉っていつの時代の言葉ですか。
 


 もうここまで述べればこの項は十分だと思いますけど。
 長い長い歴史の中のごくごく最近の言葉を我々は使っています。
 その中で新しい言葉が出てきたからと言って、我々がそれまで使っていた言葉が「伝統的だ」と言い張れるほど伝統的なわけではありません。
 伝統的と言い張るのなら、カタカナ語どころか漢語も漢字も排除して、それどころか表音文字まで排除したずっとずっと昔の言葉がもっとも伝統的でしょうけど、そんな言葉を使えますか。使えませんよね。平安時代くらいになれば文法は殆ど解明されていますけど、その伝統的な言葉を使いますか。嫌でしょう。できないでしょう。
 新しい言葉を批判する人のいう「伝統的」は、確かに真新し言葉よりは「伝統的」なのかもしれないですが、それだけの話です。小学生相手に威張る中学生と同じレベルですよ。
 結局のところ、「伝統的な日本語」という言葉も、自分の考え方が正しくて相手の考え方が間違っていると言いたい時に使われるわけです。その正しさを示す尺度に言葉の古さを持ち出して、相手が使う言葉を「伝統的でない」と批判することによって自己を正当化しているに過ぎません。だいたいの場合、自分の使う言葉よりもさらに伝統的で古い言葉を使えとは言い出さないあたりにものすごい矛盾を抱えているわけですが、結構平気で「伝統的な日本語」とか言う人いますよね。恥ずかしくないのかなと心配になります。
 


 「正しい日本語」も「美しい日本語」も「日本語力」もそうですけど。
 何か違和感を感じる新しい言葉や言葉の使い方が生まれた時、それを「なぜ生まれたか」という考えを無しに「正しくない」「乱れ」「日本語力の欠如」と決めつけるのは【思考停止】です。
 「伝統的な」という言葉も同じく、それが何をもって伝統的とされるのかということに言及せず、ただ新しい言葉と比べて「前から有った」という理由だけで使うのであれば【思考停止】です。自分が正しいと思い込んでいるに過ぎません。
 せっかく何かに気づいたんです。それを悪と決めつける前に、【観測者】となって、自分の気づいたものが何であったか、なぜ違和感を感じたかについて考えましょうよ。

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