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 日本語力、日本語ブームについて


 

 最初に言っておきますが、「日本語力」「日本語ブーム」です。
 「日本語力」は「正しい日本語」に類する言葉として使われがちな言葉ですが、それはひとまず置いておいて。
 それをさらに、「日本語力」ではなく「国語力」という人がいます。
 「国語力」という言葉を使う者は、自信満々にそんな言葉を口に出して恥ずかしくないのかと心配になってしまいます。


 「国語」は日本の教育において、日本語と日本語で書かれた文章の読解力、表現力を養うことを主眼にした科目です。
 ですが我々が普段話している言葉は「日本語」であって「国語」ではありません。
 なぜか。
 日本国に公用語は存在しないからです。国の公用語でもないのに、日本語がどうして「国語」になってしまうのでしょうか。科目名としても不適切であるとすら言われています。
 平気で「国語力」と口に出す人は、その辺の学の無さを自ら露呈しているわけです。
 だいたいの場合「国語力」という言葉は、他人の言葉づかいに対する批判を加えて「国語力を鍛えましょう」とか「国語力の足りないやつだ」のような使い方をされます。自信満々に言っているあたりが失笑に値します。
 日本語が日本国内の公用語ではないことに加え、日本国内にはアイヌ語があります。沖縄と奄美諸島には琉球語と呼ばれる言語もあります。もっとも、琉球語は日本語の方言の一つであるという見方もできますが。
 このような言語を差し置いて「日本語=国語」であるはずがありません。
 こういう事情を知りもしないで「国語力」とか言う人は恥を知るべきです。 
 

注意:ここから下は2006年頃に書かれたものをもとにしていますので「近頃」は「その頃」を指します。日本語ブームは2006年頃に起きたものです。


 近頃「日本語ブーム」ってよく言われてますね。
 でも。
 流行り言葉や今よく言われている従来とは違う慣用句を取り上げて、何でもかんでも「誤用だ」「間違いだ」とこき下ろすだけの番組が増えてるのはいったいどういうことでしょうか。
 ここで私から、一つ重大な事実の指摘です。
 なぜこんな番組が流行るか。
 みんなが「正しく」日本語を使えているのであれば、そもそもこんな番組が流行るわけがありません。
 数学に置き換えましょう。「1+1=」なんてクイズを出して、「実は正解は2なのです」などと言ったところで、そんな番組など誰も相手にしません。大多数の人が「1」だと思い込んでいるとして、そこへ「みんな1だと思ってるけど実は2なのです」というからみんな面白がって見るわけでして。
 つまり今「日本語ブーム」をリードしていると思われるいくつかの番組、特にクイズ形式のものに関して一つ言えることは、「この番組の中で正しいとされた言葉や言い回しは、現代人の大多数の人間の言葉遣いと異なっている」という事実です。
 だからこそ人気が出るのです。もちろん、なかには正解することも当然あるでしょうが、概ねの問題は、殆どの人が間違えることを前提に作問されています。


 これはどういうことか。
 つまり、正解は死語になっているということです。
 正解が死語だからみんな間違えるわけです。


 いつも私が言っていることですが。
 ではその正解は誰が決めたのか。「伝統的」というのならいつの言葉が正しいというのか。
 これまで述べてきたとおり、「正しい日本語」は存在しないし「伝統的」は伝統的ではありません。


 それから、昨今の「日本語ブーム」について、もう少しいくつか。

 こういった類の番組でとりあげられている問題って、基本的に「日本語力」じゃなくて「語彙力」ですよね。
 ここで扱われた問題が全問不正解でも、日本語を用いて他者とコミュニケーションを取る上で何らの問題もありません。そうでしょう?
 ハンデを抱えているのであれば話は別ですが、そうでない限り日本語母語話者であれば日本語母語話者と意思の疎通は容易にできるはずです。言葉を知らなくて相手の言ったことが通じないとか、スマートな表現ができなかったとか、漢字が読めないとか書けないとか、そういうような能力差はあり得ます。でもそれをもってその人と日本語を用いての意思疎通が不可能になるか、大きく解釈を間違えるか、そのようなことは起こりえません。むしろ人間が母語を用いて意思疎通をする能力はハンデがない限り極めて平等です。【日本語の全て】は完璧かつ平等に、母語話者全てが持っていて使っているのです。「美しい日本語」とか言うのなら、こういうところにこそ美しさを感じて欲しいものですがね。
 そして、「日本語力」という言葉は意思疎通能力を指すものではありません。
 私は、この手の番組を根拠に「日本語が廃れる」とか言う人間が増えていることに大きな危機感を持っています。また、正解した時などに過度に増長して、不正解の他者を見下したり尊大な態度を取る人間も少なからずいます。そういう人間こそ、言語の本質、日本語の本質を全く見えていなかったりするから面白いものです。私も見えてませんが。
 さっきも言いました。なぜ不正解が多いのか。それはこの手の番組で扱われているものは普段使わない言葉、死語がやたら多いからです。
 死語を知っていることが何の自慢になるわけでもありません。雑学の知識は確かに評価できますが、雑学の知識が「日本語力」なのでしょうか。「正しい日本語」の項でも触れましたが、ここに「日本語」という言葉を用いるのは不適切だと考えられます。


 敢えて「日本語力」というのなら、言葉を知っているかとか、正しい正しくないが云々ではなく、いかに言葉を使うかという観点をもっともっと最大限に重視するべきです。
 相手を尊重し、傷つけることなく適切なコミュニケーションをとる能力を鍛える方が、「高嶺の花」という言葉の正しい使い方を問題にして視聴者を一喜一憂させるような低レベルの番組より遥かに意義があると思います。
 それはなぜか。
 言葉の使い方を考えない人間が、「子供を産む機械」というように人を傷つける言葉を不用意に発してしまうからです(注:書いた当時の時事ネタです)
 厳密に言えばそれは日本語力以前の、思考力の問題になるのかも知れません。とにかく、いかに難しい言葉や「正しい」言い回しを知っていようと、使い方を考えなければ所詮は某大臣と同じ評価をくだされることになるのです。
 言葉をテーマにするのであれば、こういうことを起こさない能力を重視した方がいいと思うのです。
 ところが、現状はテレビ番組などで言葉をテーマに取り上げることによって、あるいは日本語ブームと呼ばれる風潮によって、「正しい」「正しくない」などという観点で【思考停止】した者を増長させ「正しくない」言葉づかいをする者を傷つけることを助長しているように思われます。


 【日本語の全て】は母語話者の誰もが持っていて意思の疎通を不自由なくできる。「正しい日本語」は存在しない。「美しい」「伝統的」も同じく。
 では「日本語力」と簡単にいいますけど日本語力とはどのような力ですか。
 「正しい日本語」の時と同じく、「日本語力」という言葉が出てくると必ずといっていいほど誰かが批判されます。「日本語力の欠如」とか「日本語力を磨こう」とか。では【日本語の全て】が明文化されていないのに「日本語力」の有無は誰が決めたのでしょうか。「日本語力」という言葉を口に出した者は「日本語力」を持っていて、「日本語力」を持っていない誰かを批判し貶めることができるのでしょうか。「日本語力」とはそんなことのために使われる力なのでしょうか。自分を高めて相手を貶める、人を傷つけるためのくだらない力なのでしょうか。だったらそんな力は無い方がいい。
 自分の考え方と違う者が現れた時、相手の考えを精査することも自分の考えを省みることもなくただ「日本語力の欠如」と批判するだけで終わってしまうような貧相な日本語力は二度と披露しないでいただきたいものです。
 まして「国語力」なんてもってのほかです。
 

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