更地のノート>日本語>諸悪の権化 『こんにちわ』撲滅委員会

 
 諸悪の権化 『こんにちわ』撲滅委員会

※これは2006年に書いたものに加筆修正を加えたものです。
 

 再三述べてきたように、「正しい日本語」「伝統的な日本語」「美しい日本語」は根拠のない空論です。
 論理を捨てて、どこかで思考停止していることがほとんどです。そうでなければこんな言葉は出てくるはずがないのですから。
 そしてここに、典型的ともいえるくらいひどく思考停止した考え方を記述したwebサイトがあります。


 
 http://park15.wakwak.com/~o0o0o0o0/bokumetsu/index.html
 『こんにちわ』撲滅委員会


 まず一つ言います。
 この委員会(?)は、賛同しない意見を一切拒否しています。
 一方的に自分の意見だけ押し付けて、「賛同いただける方のみメールを送ってください」みたいなやり方は、意見の提言者として最低の態度です。メールフォームってのは飾りですか。
 議論無き提言に結論はありえません。議論無しで、「提言=結論」とするのは独裁者がやることです。そんなことでは真理には到底近づけません。表記の問題一つよりも、こんな凝り固まった考え方に賛同してしまう人が大勢存在すること、このことの方が余程問題だと思いますがいかがでしょうか。
 このサイトでは「武闘派の集団ではない」(論争することを目的としない)とか何とか理屈を言ってますが、要は反論を拒否しただけでしょう。真理に近づくことを拒否し、自分のお題目が正しいと決めつけて【思考停止】したのです。
 そうではない? いいえ、そうとしか取れません。
 私はこの妄言サイトを論破する自信がありますが、論破しに行かずここでこんなことを書いているのは彼らに意見をする手段がないからです。
 もっとも私がこんなところで反論したところで、議論をも否定するような盲目な人には届くわけがないですね。
 当事者でない方からのものも含め、私はいかなる反論も受容します。メールも掲示板も用意してご意見をお待ちしています。


 では具体的に、そのサイト内の『こんにち○を検証する』というページについて検証を加えたいと思います。


 最初のトピック。
 要約すると、日本語母語話者がhellowの綴りをhallowって書いたら絶対に英語話者に指摘されるが、もし英語話者がhallowと綴ったら我々はどう思うか、と言う問題について。
 えーと、ここは【検証】の場ではないのですか? 【検証】というのは間違っていたらどう思うかを考えることではなく、なぜ間違っているかを考えることです。よって「どう思うか」なんて聞かれても考える必要すらありません。
 ……が、一応論破していこうと思います。
 そもそも、英語母語話者がhallowという綴りを読めといわれたら、hellowとは違う発音になります。英語は表記と発音の関係性が日本語ほど厳密ではありませんがハッキリとした傾向はあります。eとaは違う音になります。カタカナ表記にしてしまっては英語本来の発音を損なうことは承知していますが、敢えてカタカナに直すのであれば「hellow」は「ハ(aとeの中間の母音)ロウ」で「hallow」は「ヘイロウ」になります。「こんにちわ」と「こんにちは」は同じ発音で、hellowとhallowは別の発音です。材料が全く違うから比較できないんですよ。だから、英語話者が「hallow」と綴った時に我々が何を感じようが、それが「こんにちわ」を批判する根拠にはなり得ません。
 それと、表記の問題は英語にもあって、例えばディスクにはdiscとdiskという2通りの表記がありますが、委員会御中はどう思われますでしょうか。是非お答えいただきたいですね。ついでに、当然のことながらこのどちらかを「間違いである」と決め付けて頂いた上で、英語話者にどう思うか訊ねてください。その上で「自分の国の言葉で喋ることができないのか」と罵倒してください。
 委員会がやっているのはそういうことです、と私は言いたい。でも掲示板が無いから当事者にこの声は届かない。
>子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。
 このような文は、「こんにちわ」が間違っていると論証し終えてから書くものです。一個目の検証で(いや、検証ですらないか)いきなり勝手に勝利宣言しないでください。


 指摘する必要ももはや無かったのですが、たった一つのトピックで数々の問題が出てきました。議論抜きで自分の意見を提言すれば、こういう問題点に気づくこともありません。欠陥を無視したまま他者に意見を押し付けることになります。これは恥ずかしいことです。自分の国の言葉で正しく挨拶できないことよりもずっと恥ずかしいことです。こんな考え方をする人間は人間として非常に恥ずかしいです。大事なことなので三回言いました。
 更についでに言うと、日本語って「自分の国の言葉」じゃないですよね。日本国の公用語は法律で決められていません。
 もっとついでにいえば、「こんにちわ」が正しかろうが正しくなかろうがれっきとした日本語です。表記も発音も日本語です。
 「こんにちわ」が日本語として通じているからこそ「間違いである」と煙たがるのでしょう? 通じているのに「自分の国の挨拶」ではないと言いたがる。感情でばかりモノを言っているので支離滅裂ですね。
 実にくだらないトピックでした。


 次は文法的なアプローチだそうです。
 要約すれば、「こんにちは」の「は」は助詞ではなく感動詞だから「わ」がいいとという反論もあるけど、元の助詞としての「は」の表記に忠実にするべきだ、と言う内容です。
 ちなみにここが撲滅委員会の検証の中で唯一、核心を突いた検証です。
 元の意味からいえば、「こんにちは」は「こんにち【名詞】」+「は【助詞】」と分解できます。そしてその後ろに「こんにちはお日柄もよく云々」のように長々とした文が続いていました。その文の頭に来る【名詞】とそれに付いている【助詞】を抜き取ったものが「こんにちは」という挨拶として今も使われています。後ろに文が続いていれば「は」は【助詞】として機能しているので「こんにちは」が正解です。ところが現在、「こんにちは」の後ろに言葉を続けて挨拶をすることは殆どありません。「こんにちは」は「こんにちは」という一つの単語として独立してしまっています。品詞分類をするのならば活用もしないし名詞でもない、独立している【感動詞】に分類するのが適当であると思われます。「wa」を「は」と表記するのは【助詞】に限られている以上、【感動詞】の語尾の「wa」の音は「わ」と表記されなければなりません。その場合は「わ」が正解です。
 そして、「こんにちは(わ)」を【名詞+助詞】と【感動詞】のどちらで考えるべきなのか、が論点になるわけです。
 これは私の考えですが、現在「こんにちは」という挨拶の意味は、元の意味が有ろうが無かろうが「一般的な昼の挨拶」です。そうとしか説明できませんよね。「こんにちは云々」と続く文としての意味は一切残っていません。挨拶をする時、常に文として「今日は云々……」と後に続く長々しい挨拶の中身を全て連想した上で、全て省略して「こんにちは」で済ませて挨拶をしているのなら文の省略形という認識が正しいでしょうが、普通の人は「こんにちは」の後ろに続く言葉を考えて挨拶していません、何も省略されていないのです。ということは「こんにちは」は、後ろに続く文が存在しないので語尾の「は」は【助詞】ではない。「こんにちは」の全体をもって【感動詞】であると考えることができます。【感動詞】であったのならば前述の通り、語尾の「wa」の音を「は」と表記するのは誤表記です。
 【文法的アプローチ】では、なんと「こんにちは」は誤りであることになってしまいます。
 ……にも関わらず。
 撲滅委員会では【文法的アプローチ】を謳っておきながら、【元の意味に忠実にすべきである】と、文法を無視した決めつけが正解とされてしまっています。
 おかしな話です。これは【文法的アプローチ】ではありません。
 そして、【元の意味】というのは確かに一理あるんですが。
 【文法的アプローチ】では「わ」が正しいのだから、【元の意味】のために「こんにちは」を正当化するためには、【文法に反した新しいルール】を作らなければならないことになります。
 先述の通り、「こんにちは」は独立した一つの挨拶の言葉であって文を構成することはできません。「こんにちは」という言葉の【元の意味】が「こんにちは云々」という長い挨拶文であったものを省略して文頭だけ残している、ということを知らなくたって「こんにちは」という挨拶を受け答える上で不自由は何一つありません。【元の意味】なんて無くても「こんにちは(わ)」は挨拶として成り立つのです。今「こんにちは」という挨拶を受け答えるのに全く必要のない【元の意味】なんか、辞書にでも載せておいて、読んだときに「ああ、元はこういう意味だったのか」と納得すれば十分な程度の情報です。こんな雑学はクイズ番組のネタくらいにしかなりません。
 そんな雑学のために、【文法的アプローチ】での誤りを正当化するためだけに、「例外的に【感動詞】であっても「こんにちは」だけはwaの音をhaと表記する」なんて【文法に反した新しいルール】まで作って「こんにちは」が正しいと言い切ることが【文法的アプローチ】の結論なのでしょうか。
 例えば日本語を学習する他言語母語話者に日本語を教える際、わざわざ「あいさつ文のこんにちはの語尾のwaは、今は単語なんだけど【元の意味】からいうと助詞だから「は」にする」みたいな説明をするんですか。助詞の説明でさえそもそも普通の日本語母語話者にはまず不可能です。私も当然できません。それをさらに、他言語を母語とする人には何の関係もない、知らなくても全く困らない【元の意味】のために【文法に反した新しいルール】を作れと言いますか。ハッキリ言って迷惑でしょう。
 それと。
>「今日はどちらへ?」という挨拶も元々は疑問文であるが、相手の答えを要求しない挨拶文である。「へ」を「え」と発音するからといって「今日はどちらえ?」にはかなりの違和感を覚える。
 「今日はどちらへ?」は「相手の答えを要求しない挨拶文である」ですって??? 要求しているでしょう。
 「今日はどちらへ?」って言われて、黙っていたら失礼です。「そちらこそどちらへ?」も失礼です。「今日はどちらへ?」と聞かれたら自分の行先を答えるでしょう。まぎれもなく要求されたことに対する答えですよ。
 「今日はどちらへ?」は挨拶の言葉と言えますが、文としての意味を完全に残しています。「今日はどちらへ」の後ろに省略される言葉は「行く」とか「おでかけになる」のようなものが容易に類推できます。だから文であり、助詞の「へ」のままで今も使われるのです。
 「こんにちは」はどうですか。先述の通り、後ろに続く文を想像することはできません。「こんにちは」と挨拶されたら答えは「こんにちは」かそれに類する挨拶、あるいは別の話題への切り替えになるでしょう。
 「こんにちは」以外の例を持ってきたのは評価できますが、検証が間違っていたのでは話になりません。「今日はどちらえ?」が間違いだから「こんにちわ」も間違いであると言おうとしたのでしょうが、むしろ両者を比較することで「こんにちは」が助詞としての意味を残していないことが明確になりました。
 


 総括しますが、単語の末尾の「wa」の音を「は」と表記するのは日本語表記の法則に反しています。残ってもいない【元の意味】のために例外的表記をするのは非合理的だと私は思いますしそれが「わ」派が現れる原因の一つでもあるのでしょうが、それはさておくとしても撲滅委員会がこの項目で謳った【文法的アプローチ】としては「こんにちわ」が正しくなくてはなりません。
 にも拘らず、【文法的アプローチ】を謳ったこの項で、委員会は【元の意味に忠実にすべきだ】という【文法的アプローチ】を無視した結論を出しています。
 私の考えとしては、正しいか正しくないかという議論はさておき、【元の意味】と【文法】はどちらも一理ある話であると思います。
 【文法】を尊重し、助詞でないから「こんにちは」と表記することができないとするのか。それでも昔は「こんにちは」と書いていたから【元の意味】を尊重し「は」で表記するのか。
 どちらも一理あるのに、『こんにちわ』撲滅委員会は「【元の意味】に忠実にすべきである」だけを正と決めつけてしまいました。ちなみに、なぜ【元の意味】を尊重すべきなのかという説明はありません。撲滅委員会は「【元の意味】からすればこんにちはが正しい」としか言っていません。
 その一方的な結論付けも残念ですが、なにより自ら【文法的アプローチ】を謳っておいて【文法に反した元の意味】を正しいと決めつけるなんて根本的に破綻していますよね。これが【検証の結果】であるはずがありません。
 誤解されないよう、くどいようですがもう一度書きます。私は「こんにちわ」が正しいとは言っていません。【元の意味】と【文法】のどちらが優れているかについては言及していません(但し、文法を重視した方が合理的だとは思っています)。あくまで【文法的アプローチ】としては「こんにちわ」が正しい、と言っています。


 次の話。
 ドラえもんで、のび太が先生に「わ」を「は」に直されていたから「は」が正しいのだそうです。
 ふーん。……で?
 これは「直されたから間違っている」のではなくて「間違っているから直された」んですよね。
 で、どうして「わ」は直されたのですか。なぜ間違いなのですか。【検証】とはそれを明らかにすることです。


 次。
 実は「こんにちわ」はミスタイプであり、「わ」と打つつもりが間違って「は」を「わ」と打ったのではないか、と
 単なるページ数稼ぎですね。
 ATOK辞書に登録されてないとも書かれていました。ああそうですか。そうですね。それは検証じゃなくて他人の意見を鵜呑みにして言い直しただけです。
 「ATOK辞書に登録されていないから「は」が正しい」は【検証】ではありません。なぜ登録されていないかを考えるのが【検証】です。



 次。
 「こんにちわ」は何か雰囲気や効果を狙った意図的な表現なのではないか、という話。
 公的な場で使えば「わ」が間違いとされています。私はいずれ変わるべきであると思いますが、現状は否定されています。
 逆に言えば、一応敬語っぽい語り口でも私は自分のwebサイトを私的な場と思っています。だから「更地のノート」では「わ」は許容されて然るべきだと思います。
 ところで。
 ここの単元、どういう展開になるかというと。
 最初は、「わ」で狙う表現効果の話をした後で。
 >「こんにちわ」は、その後ろに隠れた、どうしても表現したい「何か」が薄
 >せいぜいが「『こんにちわ』と書く方がイマドキでカワイイ」ぐらいであろうか。全体的に、「こんにちわ」と書く人には若い人が多いという。そのため「若さ」を表現しているとも言える。
 「せいぜいが」って何様ですか。
 そして、ここでいう「意味」が薄いかどうかは単なる主観です。検証には関係ありません。
 それに何より、「薄いからダメ」は大きな誤りです。例え薄くても意味は持っていますから
 で、シメが。
 >「こんにちわ」派の人は初対面の人に宛てたメールやや(原文ママ)正式な文章で「こんにちわ」と書くことは少ないと言う。もしはっきりとした主張があるならば、堂々と正式文書にも「こんにちわ」と書いてもいいはずだ。しかしほとんどの人は使い分けている。「言葉は変わる」と言っても、まだ「こんにちわ」はスタンダードではないのだ。
 あのー、最初に挙がっていた表現効果の話とか、何のために挙げたんでしょうか。
 ポリシーとして「私はラフな言葉は一切認めない」というのなら納得しますが、この文はそういうものでは全くありません。「正しいとはされていないが効果を狙って使われる表現」は、ここでは表現として認められているのですから。「こんにちわ」は「効果が薄い」と指摘されましたが、効果が全く無いのか少しでも有るのかと言われれば「有る」のですから「こんにちわ」も当然この類に含まれます。だから「こんにちわ」は「正しくは無いけど効果を狙う表現」なのです。だから公的な場での使用が避けられている。スタンダードでない。全くその通りです。
 ですが「公の場でふさわしくない」と「間違っている」は全く別の論点です。従って、「公の場で使われないから正しくない」というのであれば完全な誤りです。しかも「正しくは無いけど効果を狙う表現」は認められていて、「こんにちわ」だけがなぜか「正しくない」「間違っている」と指摘されています。これは完全に矛盾しています。
 それと余計なことかもしれませんが、 随所随所に「こんにちわ」を目の敵にしているとしか思えない攻撃的な文があって非常に目障りです。さきほどの「せいぜいが」もそうですし、ここで出てきた「はっきりとした主張があるならば」もそうです。これらの余計な一言は検証には一切関係ありません。ただでさえ『こんにち○を検証する』と題されたページの【検証】としての性格は無いに等しいのですが、これらの余計なひと言が更に検証からかけ離れた物にしています。


 次。
 こんにちわを使うと損だ。メールの冒頭に「こんにちわ」なんて書いたら返事もらえないぞ、という話です。
 笑いを取るつもりなのでしょうか。これは【検証】ではありません。
 「こんにちは」と安心して挨拶を交わせる人とだけ話せばよくて、「こんにちわ」といわれたらそんな奴は相手にするな、という中身ですが、これのどこが検証なのでしょうか?
 例として、自称編集者からのメールに「こんにちわ」が使われていたから相手の身分が嘘だと見抜いたとか何とか書いてありました。これも検証とは程遠い。だいたい「ウソである!」と決め付けていったいこの場で何を言えたことになるんでしょう? その人は本当に編集者ではなかったの? 本当は編集者だったの? それすら書いてありません。
 あまりに飛躍が酷くて理解に苦しみます。結論ありきじゃないですか。【検証】らしいことをしていたのは本当に最初の方だけでしたね。
 まあ、先の表現技法云々の話で出た通り、ビジネス文書として「わ」を使ったことが不適切なのは解りますが、それで「もし本当に出版社の人間だったらその会社の本を手に取れない」などと雇い主である出版社まで否定する、ちょっと大げさに書きすぎじゃないでしょうか。しかもこれは本人の勝手な決意表明であって【検証】ではないですよね。
 言っていることは間違ってません。公的な場で、正しいとはされていない表現を使えば人間性の判断に繋がります。これはひとつ前のトピックにも関わってくることです。
 でも公の場で使われないからといってそれが即ち間違っていることにはなりません。それとこれとは別の問題で、ここでは「こんにちわ」が「公の場にふさわしくない」という性質が明らかになっただけです。たった一行で済むことなのに、トピックを二つも費やしていったい何を【検証】していたのでしょうか。【検証】を忘れて「こんにちわが悪い」って書き散らしただけにしか見えません。


 最後に、「なぜ「わ」派と「は」派が対立するか」について述べられています。
 >それはおそらく「こんにちわ」派が持つ対人関係の距離感が、「こんにちは」派の距離感と異なるからではと考える。
 つまりは、「こんにちわ」と使った人はなれなれしく話しかけてるつもりでも、「こんにちは」派の人はそう話しかけられると気安過ぎるように感じる、という話ですね。
 >「こんにちは」派の人は、「こんにちは」が正しいと思っていても言えない。「どうしてこの人は『こんにちわ』なんて書くんだろう」と思っても、相手の距離感がつかめないため指摘することは難しいからだ。たいした問題ではないと思いつつも、心に違和感がつもっていくため、掲示板を見るたびに気になってしまう。違和感がつのるとやがてストレスへと変わり「『こんにちわ』派は無神経にこちらの領域に踏み込んでくる」とイライラを爆発させてしまう。
 これはどちらが正しいかどうかではなく、「こんにちは」が正しいと思っている人の性格が問題なんだと思いますが…。
 >「こんにちわ」派の人々には、不特定多数の人間が見る掲示板では「こんにち○問題」に神経質になっていたり(口に出さないまでも)ある種の感情を持つ人々がいるかもしれないということを知っておいて欲しいと願っている。世の中には様々な人がいると知っているだけでも、コミュニケーションは上手くいくはずだ。
 それはお互い様です。
 「こんにちは」と表記するのが、語の由来を考えれば正しいのは間違いないでしょうが、由来よりも実情を優先してそれを変えようと考える人がいるということ、決して安易に「イマドキ」だとかそう言う理由だけで「こんにちわ」を使っているわけではないということ、キチンと理解して欲しいと思います。
 相手の考えを理解しないで「わ」が正しくないと思い込んでいるからこそ。
>「こんにちは」が正しいと思っていても言えない
>心に違和感がつもっていく

 なんて文が出てくるんでしょう?
 言っていることがおかしいですよね。こんにちはが正しいと思っていても言えない、ということは相手の意見を認めず自分の意見を主張しようと思っているということです。ちゃんとした考えを持っている他人に自分の意見を押し付けようとするのは、相手を理解しようとしていない証拠です。いや、自分が正しいから相手を理解する必要がないという意識の表れでもあります。
 相手の考えは自分の意見と違うということさえ理解していれば「こんにちわ」が間違っていると指摘する必要は全くありません。
 なのに。
>ある種の感情を持つ人々がいるかもしれないということを知っておいて欲しいと願っている。
 ですか。
 理解していないのは「こんにちは」派の方でしょう?
 どうして「こんにちわ」派が、掲示板には「こんにちは」派の人がいて「こんにちわ」という表現を見ると正しくないと思うからイライラすることを知っておかなければならないんですか。しかもここでいう「知っておく」は暗に、「こんにちわ」を使うな、という意味になりますよね。【検証】を謳っておいて、ここまできてもあまりにも一方的過ぎます。こんなの【検証】じゃありません。この言葉も何度言ったことか。
 相手を理解しろというのなら、「こんにちは」派の人が「こんにちわ」派の人を理解すればいいのです。べつに「わ」を使う必要はありません。理解だけしていればいいのです。自分が書くときは自分が正しいと思う通りに書けば良い。それだけの話です。他人が自分と違う表記をしていても、そういう考え方の人もいるということを理解していればいいのです。
 だいたいこの手の論争って、「こんにちは」が正しいと思っている人が、「こんにちわ」を正しいと思っている人を責めることから始まるわけじゃないですか。
 コミュニケーションを上手にする方法を知るべきなのはどちらでしょうね。


 距離感について触れられていました。
 「こんにちわ」を使う人は公的な場では「は」を使う人が多いから、掲示板等で他人に「わ」を使うと受けた方にしてみれば正式ではないとみなされた、馴れ馴れしくされていると感じ戸惑う可能性がある。それは確かにそうですよね。
 でもそれは「わ」を使ったことに対する戸惑いではなくて距離感に対する戸惑いですよね。「こんにちわ」だけの問題ではありません。
 しかも結局途中から「距離感が微妙だから「は」が正しいことを指摘できない」だとか何だとか、距離感と関係の無い個人の性格の方向に持って行っていまいました。破綻しています。
 まあ、その程度なんでしょう。最初から最後まで関係あるようで無いような話ばかりで、何でもいいからとにかく「こんにちわは間違っている」と書けばいいという流れでしたね。
 こんなものに賛同者が大勢名を連ねているのも不思議でしょうがないのですが。
 「こんにちは」が正しいと思う人がいるのは事実ですし私だって公の場では「こんにちは」と書きますけれど、撲滅委員会の説明を読んでいても「こんにちは」が正しいとは到底思えません。 


 さて。まとめましょう。
 何度も私は「これは【検証】ではない」と言ってきました。
 『こんにち○を検証する』は【検証】とは無関係なことばかりで字数が大変に膨れ上がっています。私に言わせれば「こんにち○を検証する」なんて題した文は小段落が5つあればまとまるんですよ。


 「こんにちは」という語は、昔は人と出会った時に「こんにちは云々…」という長いくだりで挨拶をしていたものから、冒頭の「こんにちは」だけが残ったものである。
 その由来から「こんにち【名詞】+は【助詞】」と分解できるが、今では意味的にも独立した一語なので「こんにちわ【感動詞】」と捉えることもできる。
 由来を重視するべきか、今現在の語の使われ方を重視すべきかで意見が割れている。
 現状では前者が正しいとされ、公の場では後者を使うことはふさわしくないとされる。
 にも拘ら掲示板などで、そこを公的な場と捉えず「こんにちわ」と挨拶する人がいて、公的な場と捉えている方からすれば気に喰わないので喧嘩になる。

 
 【検証】の中身なんてたったこれだけでしょう?
 『こんにち○を検証する』は「こんにちわが間違いである!」と言いたいがための余計な事例、筆者の持論(というより思い込み)の展開、罵詈雑言が主成分で、【検証】なんて殆ど行われていません。数少ない【検証】ですら偏見に満ち論理とかけ離れた結論付けが成されています。
 敢えて彼ら風の表現で、
 
「撲滅委員会は【検証】って日本語も知らないのか」
 
 って言ってやりたくなるところであります。
 
 さて。
 結局のところ、「こんにちは」「こんにちわ」は何なのか、という話ですが。
 正しいか正しくないかについて結論はありません。いつも言っている通り、「正しい日本語」は存在しませんから。
 撲滅委員会は勝手に結論を出してしまいましたけど、言語はその言語を使う全ての人がユーザーでありメーカーでもあります。それぞれに考えを持って言葉を使っています。どれが正しいかなんて言い出したら、独裁者が独断と偏見で言葉の使い方を明文化する以外に結論は出ません。だからこそ言語については、「正しい」という観点は捨てるべきです。そんなことを思うから相手の言葉の使い方を許容できなくなり、イライラしたり、大人気ない人間が他人に口出しをして喧嘩を起こすのです。
 掲示板等で散見される言葉遣いについての論争も大抵このパターンです。
 大体の場合、自分の意見を正しいと思っている人が、自分と違う意見の人を正しくないと批判することから始まります。これは偏見になりますが、他人の言葉づかいに口出しをする人間は大概は「自分は正しい」という思い込みが背景にあるので、発言も高圧的で攻撃的、しかも反論には取り合わないので客観性に乏しいため収拾がつかなくなりがちです。
 他人の言葉遣いについては、許容すること以外に紛争解決の道はありません。なぜならどちらも正しいと思っているのですから。ナンボ論争しても結論は出ません。
 まあ撲滅委員会のように、言いたい放題自分の意見を言って「反論は受け付けません」って言い切ってしまえば、勝ったつもりにはなれるんでしょうけどね。
 恥ずかしいですよね、そういうの。
 
 
 私もね。
 訓令式のローマ字を使っている人に「つづりが間違っている」と指摘して、その後勉強した結果かつての自分を猛省したことがあります。
 相手の言葉の使い方が自分の正しいと思うものと違うからといって、相手が間違っているとは限りませんよね。自分が間違っているとも限りません。
 言葉についての間違いは、間違いを指摘する行為そのものです。
 
 
 それと、余談なんですけど。
 この通り、私は『こんにちわ』撲滅委員会なるサイトの運営者とは180度考え方が違うし、もしも面と向かってこの問題について一対一で議論し始めたら収拾がつかなくなってしまうのではないかと思いますが。
 しかし一方では、ウェブサイトのリンクなどに対する考え方は非常に私と酷似して共感を覚えるとともに感銘を受けました。
 この「更地のノート」も現にそうしていますが、トップページに著作権表記(C)を書いていません。
 なぜならここは日本国であり私は日本国籍を有する者であり、私の創作物は日本の著作権法により、作られた時点で自然的に著作権を有しているからです。「This website is Japanese Only!」とも書いていません。ほんの一時期書いていましたが、サイトが日本語で書かれていることくらい、英語で説明しなくたってそんなもの見れば誰だってわかります。ついでに言うと訪れる人は日本語を母語とする人だけでなく、もちろん英語を母語とする人だけでなく、韓国語母語話者も中国語母語話者も他の言語を母語とする人もいるのに英語でだけ書くのがそもそもおかしいのです。
 リンクについても書いていません。私の許可があろうともなかろうともリンクは自由に行われるべきです。ただし私は「解題」の項において、「なるべくトップページに張ってほしい」旨のお願いは書きました。ただ単に「そうして欲しい」というお願いであって従う義務を誰かに課すものではありません。ほかのコンテンツ、例えばこの「日本語」のページに直接リンクを張っていた人がいたとしても私は張り直しを要求することはありません。たぶん何も言わずに相互リンクをお願いしにいくことでしょう。
 この辺については、おおむね考え方は共通しているんですよね。
 もしかしたら気が合うのかな、とも思いますが「賛同者の意見のみ受け付けます」なので私の気持ちは永久に届かないでしょう。
 
 更に余談ですけど。
 リンクについて色々書かれた中に、「リンクフリー」という言葉は和製英語で元の意味からすると間違っているから使うな、とあります。
 他の項で述べましたけど、英語でのLINK FREEと意味が違うことが事実だとしても、だから日本語の「リンクフリー」が不適切だということにはなりません。
 英語と違う意味になって定着しているのであれば、「リンクフリー」は「リンクフリー」という日本語であってすでに英語ではないので誤用ではないし不適切でもありません。日本語と同じ意味で英語話者に向けて英語でLINK FREEと言って恥をかくのは本人の英語力の欠如が問題なのであって、日本語の「リンクフリー」という語には何の関係もありません。「リンクフリー」は英語由来のあくまでも日本語です。そもそもカタカナ表記した時点で発音も別物ですし、英語のlinkともfreeとも一切関係ありません。
 
 というわけで。
 やっぱり気は合わないだろうな……。
 

更地のノート日本語>諸悪の権化 こんにち「わ」撲滅委員会