更地のノート>日本語

 
正しい日本語なんてものは存在しない

「正しい日本語」は存在しない。「美しい日本語」は美しくない。「伝統的な日本語」は伝統的ではない。「日本語力」とは言った本人のみっともない思考回路を見せつける力だ。


 ここは日本語母語話者の一人である私、三鷹逆織が日本語についての持論を表明するために設けられたページです。
 したがって書かれていることは仮説と私説のオンパレードです。内容は大いに偏っています。
 ここに書いたことに対するコメントは、賛同も批判も含めて一切拒否しません(もちろん、無関係な誹謗中傷やスパムはダメですよ)。
 掲示板、メールはこちら。お待ちしております。
 

0、はじめに……いや「おわりに」かもしれない
 
1、「正しい日本語」は存在しない
2、美しいことを強要されるいわれはない
3、伝統的な日本語って何だ
4、日本語力、日本語ブームについて
5、カタカナ語が増えても日本語は廃れない
6、ら抜き言葉は正しくないわけではない
7、ヘボン式のローマ字に正当性はない
8、Kan Naoto か Naoto Kan か。
9、言葉狩りについて
10、諸悪の権化 こんにち「わ」撲滅委員会


 

 はじめに。いや、おわりに、の方が正しいかもしれません。
 ここは三鷹逆織が、日本語について個人的にアレコレ考えていることを発表する場です。
 ここでは、世間でよく言われる「正しい日本語」「美しい日本語」「伝統的な日本語」「日本語力」といった類の言葉を徹底的に否定し、一方でそれらの言葉を用いて批判される【ら抜き言葉】などの【日本語の乱れ】が批判に値しないという私個人の考え方を説明しています。
 ですが、10項目に渡って好き放題書き散らしたことも、根底にあることは共通で簡単です。
 新しい言葉や言葉の使い方に出会った時には、それらを悪者であると決めつける前に自分で考えて観察して欲しいのです。
 言葉について言えば、「正しい」かどうかなんて何かによって決められていることではありません。教科書ですら正しいわけではないんです。決まっていないのにどうして「正しい」なんて言葉が出てくるのか。思考を停止したからです。どうしてそんな新しい言葉が出てきたのかを考えるのではなく、それを悪者であると決めつけて【思考停止】してしまったのです。その結果、教科書に載っていたとか今までの自分の人生の中で使われた言葉を「正しい」と言ってしまったり、主観に過ぎない「美しさ」を基準にしてしまったり、自分の使う言葉だってかなり新しいのに自分の言葉を「伝統的」と言ってしまったりしてしまうのです。
 そのような価値観は自分を正当化して相手を否定するためだけのものです。捨てましょう。そして相手の言葉を【観測】してください。考えてください。
 違和感を感じたのなら、そこに日本語の仕組みが間違いなく見え隠れするはずです。「正しい」わけでも「正しくない」わけでもない【現象】がそこにあるはずなんです。
 せっかく気づいたのに「正しくない」などといって批判して終わるのはとても勿体ないことです。


 一連の文章では、「正しい日本語」に類するような考え方を常に目の敵にし、ケンカ腰で問題点を投げつけ揚げ足を取り徹底的に全否定しています。論戦も厭わぬ覚悟です。むしろ私の方が論破されることも考えた上で、敢えてこんなものを書いています。
 でもそれは「正しくない日本語」を正当化するためのものではありません。
 「正しい」という価値観を捨てて欲しいのです。
 日頃「そんな日本語はない、正しい日本語を使え」とか言っていた人が、次からはそういう口出しをやめようという気になってもらえれば幸いです。
 そしてもしも、「どうしてこんな表現が生まれたんだろう」なんてもしも考えてくれたのならば。もしも更地のノートの掲示板で疑問や考察をぶつけてくれれば。
 それはもはや私にとって、望外の喜びです。

更地のノートに戻る