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シバクラ
「あっ……!」
という声は割りと大きめに響いた。
一人の女子生徒が教室のド真ん中で倒れた。
最初は誰もが驚いてそちらを見たが、倒れた女子生徒が誰であるかに気付いた瞬間に数割が目を戻した。
その女子生徒の名前は柴橋絵美。
一年七組。俗にいう「イタい子」だ。
「っつ……」
彼女は声を漏らしながら起き上がる。
ただつまずいて転んだだけだ。
中学生の若さで、ちょっと膝を打ったくらいで大したケガなどするハズもないのだが大げさなことだ。
「先生」
右足を引きずって彼女は教卓へと歩み寄る。
「保健室、行っていいですか?」
何人かが「またか……」と呟いた。
「あー、まあ一応診てもらった方がいいな」
誰がどう見ても転んだだけ。けれど万が一のことを考えた場合、今このケガを軽視し放置したことについて責任を問われる可能性がある。
断るに断れない先生は。
「あー、保健委員」
と言った。
「向田さんは休みです」
と誰かが言った。
「あー、じゃあ倉橋。連れていってやれ」
……。
僕?
僕は自慢ではないが国語が苦手だ。
文章を読んで感想を書けだとか、この言葉の説明に適切な一文を本文から抜き出せだとか、そういった類のことが本当に苦手だ。
だからこそ授業中に先生が触れたり生徒に質問したりしてきたことはマークしておく必要がある。
そうしなければ中学校の試験とやらは切り抜けられないことは先日の中間試験で思い知った。
期末も酷い点を取ったら一学期は酷い成績をつけられてしまう。
そうならないために、国語の授業はきちんと受けておこうと思っていたのに。
「すまないな」
と謝りながら足を引きずる女子生徒、柴橋。
隣を歩く彼女には、実は足以外にも負傷箇所がたくさんある。
右手首には包帯が巻いてあるし、左足も絆創膏が貼ってある。それらは家でしてくるのだろうが、学校の中でもしょっちゅうケガをしていて、そのたびに大げさにも保健室に行かせろと要求するのだ。
学校が始まってたった二ヶ月だが、何度保健室に行ったか知れたものではない。
「今のはどうしたんだ?」
「いや……プリント出しに行こうとして転んだだけ」
柴橋が転んだのは、先生が「プリント書けた人は持って来て」と言った直後のことだった。
渡しに行こうとして転んだのだろう。
「何かにつまづいたとか?」
「……」
柴橋はふと視線を逃がした。
……実は、僕は解ってるんだ。
柴橋が何て答えるかなんて。
そうさ、みんな知っている。
知らないフリをして聞き出そうとする僕は偽善者だ。
柴橋は、そして。
「倉橋君は知らない方がいい」
と、決まりきったいつものセリフを言った。
そう。
自分の不注意で(いや、むしろわざとか?)転倒したのに、柴橋はいつも理由をそうやってはぐらかす。
もちろん、不注意で転んだことを「知らない方がいい」理由など全くない。
「なんでそういうこと言うの?」
「キミのためを思ってだ」
「なんだそりゃ」
「……」
柴橋は何も言わない。
当然だ。理由なんて何もないのだから。
「……あれ?」
と、僕はどうでもいいことに気付いた。
「柴橋さん、血が出てるぞ」
「え? あっ」
転んだ時にどこか角にでもぶつけたのか。
膝の皮が剥けて、ほんの少しだけど血が出ていた。
「……なあ、倉橋君」
「ん?」
「私の血、キレイか?」
「はあ?」
おかしなことを言う奴だ、というのは入学当初から解っていた。
だけど授業中の廊下、二人きりの状況で面と向かってそんな意味不明のことを言われると恐怖すら感じる。
目の前にいる人の頭の中は意味が解らない。
「ま、まあ普通に赤いんじゃない?」
「そうか」
なんなんだ。
僕は小さくため息をついた。
保健委員は男女一人ずついて、女子がケガとかした時は女子の委員が連れて行く手はずなのだが、今日に限って向田さんは休んでいた。
いや、むしろ。
今までこんな奴に付き添って何度も保健室に行っていたのかと思うと今日一回くらいは替わってあげてもいいような気もする。
「……どうしたの?」
ふと気がついたら、柴橋は僕の後ろで立ち止まっていた。
「階段……」
「え? 階段がどうかした?」
一年の教室は四階。保健室は一階。
階段を降りなくてはどうあっても保健室に行くことはできない。
「倉橋君」
「何?」
「肩を貸してくれ」
「……」
僕は唖然として、黙って立っていただけだ。
直立の僕の首の後ろから、柴橋はためらいもなく手を回してきた。
「……これでいいのか?」
「助かる」
しまった。
そうだ。
今僕の首の後ろを巻いて右肩の上から胸の辺りまで垂れ下がっているこの腕は。
半袖のブラウスから出た、僕と違って産毛も無くて白くてすべすべしているけれど 僕のものと大して見た目も変わらないこの腕は。
女の子の体の一部なんだ。
そう考えたらなんだかドキドキした。
反射ではなくて理屈でドキドキした。
「ありがとう」
と柴橋は言った。
「向田さんは貸してくれないんだ」
ああ、まあ、そりゃ、な。
たかだか転んだだけで別にどこも悪くない奴に肩を貸す必要なんてどこにもないもんな。
僕は甘やかしているのだろうか。
「倉橋君」
「ん?」
「私がケガをした理由を知りたいか?」
「……」
本音を言えば知りたくなど無い。
というか既に知っている。
こんなものは単なる偶発的(あるいは故意)に起きた転倒事故だ。他に理由など無い。
けど。
柴橋がその口から何を語るのかが少しだけ気になった。
「どうして僕に教えてくれるの?」
「優しくしてくれたからだ」
そんなに優しくしただろうか?
肩一つで?
「但し誰にも言わないで欲しい。約束できるか?」
約束も何も、偶発的(あるいは故意)に転んだことくらいあの場にいた全員が既に知っている。
「いいよ、約束する」
もとより、言いふらしたところで誰もマトモに取り合わない話が飛び出してくるに決まってる。なのに何をこんなにもったいぶる必要があるんだろう。
僕はウズウズしながら、一階に至る最後の階段を降り始めた。
「実は私は」
柴橋は僕にすっかり体重を預けたまま、僕より半歩後ろで足を進める。
「ある者に命を狙われている」
「……………」
びっくりだ。
僕は本当に何も言えなかったよ。
「私の本当の名前はクライス」
「柴橋絵美でしょ」
「クライスは柴橋絵美の体に宿ったもう一つの人格だ。その人格がもたらした【追憶】を辿って私は『奴ら』と戦ってる」
「……ふーん」
「本当は奴等との戦いで背中と肩にケガをしていて、歩いた時の激痛で思わず私は膝をついてしまった。でも背中の方のことを言うとおおごとになるから私は黙っている」
「……ふーん」
「大丈夫、痛みに耐えることには慣れている。背中と肩の傷は保健室の先生の目を盗んで自分で包帯を巻きなおすから心配はするな」
してねえよ。
と言いそうになった口を慌てて噤んだ。
「だけどこの話は誰にも言うなよ。言ったらキミまで命を狙われる」
誰にだよ。
と言いそうになった口をまた噤んだ。
そんなことをしているうちに保健室の前に着いて。
「ありがとう」
と柴橋はまた言った。
「あと、倉橋君」
「何?」
「大丈夫だとは思うが、一応周囲には気をつけた方がいい」
「なんで?」
「私と一緒にいたことでキミに危害が及ぶ可能性がある」
「……ああ、気をつけるよ」
「ではまた後でな」
そう言って柴橋は保健室のドアの向こうに消えていった。
でも正直、柴橋の言ったことは少しだけ当たっていた。
教室に戻ると、隣の席の男子が。
「どうだった? デートは」
「は?」
「なんか結構仲良く歩いてたよな」
「……どっから見てたんだよ」
「渡り廊下。教室から見えるんだよ」
「……げ」
時既に遅し。
そういえば保健室の手前までずっと肩を貸しっぱなしだった。
「実はさ」
「ん?」
「窓際の奴らがそれ目撃した時、みんなで一斉に見てみたんだよな」
「はあ?」
何と言うことだ。
「あー倉橋、ご苦労だったな。ん? 何なら帰りも迎えに行くか?」
と話しかけてきたのは。
まさか。
「先生、何言ってんスか!」
先生まで一緒になって!
「あー、いいぞ。授業中だが先生が許可するぞ」
「行きませんよ!」
キッパリと言い返したが他の生徒達の暴走は止まらない。
「すげーな。このクラスからカップル誕生か?」
「恥ずかしがってないで早く行けよ!」
もう授業なんてもんじゃなかった。
先生まで一緒になって茶化しやがって。
「いい加減にしてくれよ、僕は係としての責務を果たしたまでで!」
くそー、こいつらガキか! 先生まで含めて!
しばらくするとそこへ。
「戻りました」
教室の後ろのドアを静かに柴橋が開けて入ってきた。
「お、倉橋のハニーが戻ってきた!」
と誰かが言った。ハニーって何だよ。
「柴橋さん、倉橋君と付き合ってるの?」
僕をいじり飽きたのかみんなの視線は柴橋さんの方へ向かった。
「さっき凄く仲良さそうに見えたけど?」
「……」
柴橋は暫く呆気に取られていたが。
教室の廊下側の一番後ろの席の僕に向かって、無表情でこう言った。
「平和ボケした奴らの言うことなんて気にするな」
「ちょ、お、おまえ否定しろよ!」
柴橋の一言で類焼してしまった。
もう僕の声など誰にも届かない。
「カップルおめでとう!」
「カップルじゃねえ!」
「ハシハシおめでとう!」
「いやダセえし!」
「倉橋君は結婚したらハシハシ君に改名するの?」
「何で苗字が合体してんだよ!」
僕の声など奴らには何も聞こえない。僕の感じる困惑など誰も何も感じないのか!
もう一人の当事者はと言うといつも通りの我関せずの顔。だけどチラチとこちらを見てニヤリと笑った。
柴橋さん。僕の学校生活の安寧を返してください。