更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月一日の章 夜行列車 > 1/1

 

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 車内の空気は殺伐としていた。もはや意識があるとは思えない泥酔状態のサラリーマン。周囲にはお構いなしにイチャつくカップル。時刻表を片手に寡黙を決め込み車窓に目をやる男。親の姿の見当たらない、首からカメラを下げて騒ぎ散らす小学生くらいの集団。満席近い乗車率で蒸した空気が異様なまでの不快感を抱いている。
 夜行列車に乗るのは生まれて初めてだが、こんなものなのかと思うと正直落胆する。いくつか隣の車両に移ればそこは既に眠りの中なのだが、受け取った切符は乗車券と自由席の急行券のみ。追加料金を払えばその寝台車も使えるが、寝台料金は馬鹿に高いので払うことなどできなかった。しかし今の座席車のこの様子を体感すれば、たかが六千と少しの追加料金で寝台車に横になって静かに眠れるのは、相対的には決して高くないかもしれない。
 普段なら高加速の通勤電車が走り抜けるこの駅を、列車は妙にゆっくりと走り出した。車で言うなら三速発進でもしているかのような、ぎこちなくてまだるっこしい加速。ホームの景色が流れていく。これが、旅を趣味とする人が良しとする「旅情」とかいう奴だろうか。そんなことを考える。見慣れた街の見慣れない暗さが妙な違和感をかもし出す。普段なら周囲を照らし出していたビル明かりは、いまや点灯している方が少ない。いつも通っていた途中の駅には、見慣れない位置に電気の消えた電車が羽を休めていた。
 昭島宗佑が今夜この列車に乗り込んだ理由は、実は彼自身がよく解っていない。
 一面識も無い父方の祖母から、ゴールデンウィークを目前に控えた四月下旬、突然こんな手紙を寄越されたのである。
 
 
 昭島宗佑様
 
 拝啓
 
 新緑、野原に萌えるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
 初めまして、と言うには、語弊がありますが、慣れゝゝしくできる間柄とは、決して呼べぬことでしょう。あなたのお顔は、宗孝から頂く年賀状で、何度も拝見していますが、お目にかかったことは、一度もありません。私が、祖母などと名乗ったところで、自然に接することは、もはや、できないかも知れませんね。あなたの父が、東京に出たために、遠方ゆえ、あなたと会うことは、叶いませんでした。まだ見ぬ孫に、思いを馳せつつ、あなたが生まれてから十九年も、経ってしまいました。しかし私は、あなたの存在を片時も、忘れたことはありません。現在、大阪の大学に通っていることも、親戚やあなたの父からの便りで、伺っております。この私の思いは、理解までは求めませんが、是非、あなたに知っておいて頂きたいと、思います。
 さて、唐突で、非常に申し訳ないと承知してはおりますが、取り急ぎ、用件をお伝えいたします。
 あなたにするべき、大切なお話を、ご用意しております。つきましては、今度の五月の連休に、是非、高熊窪を訪ねて頂きたいと思います。お話の内容は、あなたの身に関わることでは、ありますが手紙でお伝えできるようなことでは、ありません。恐縮ではありますが、全ては、あなたが高熊窪にいらしてから、ということにさせてください。
 重大なお話ですが気をもむことは、ありません。観光気分でお越しくだされば、結構です。
 あなたの叔母に当たる雅美、従兄弟に当たる啓太も、私と同じく、あなたのお目にかかる日を、楽しみに待っています。
 こちらへの切符を、同封しておきました。帰りの切符は、こちらで用意しますし、宿は、私の家をお使いください。あなたの父、宗孝の実家でもありますので、遠慮は無用です。当方は、電話が通じませんので、連絡などは結構です。部屋は、いくつもありますから、いつ訪ねて頂いても大丈夫なように、準備しておきます。どうぞお気軽に。くれぐれも道中はお気をつけて。
 孫に会える日を楽しみに、お待ち申し上げます。

         かしこ
         昭島エツ
 
 
 要するに会いに来いということだろう。
 しかし先述の通り、宗佑には祖母との面識が一切無い。
 東京で生まれ、育ち、今では親元を離れて関西の三流大学に通っている。関東に住む母方の親戚とは懇意にし、不自由などなかった。少なくとも、父方の祖父母と面識がないからといって被った不利益はひとつもなかった。
 それが今になって、いきなり「重大な話」とは何事か。
 宗佑は、父が祖父母邸宛てに年賀状を出していることは知っていた。しかし向こうから年賀状が返ってきたのを見たことは一度もないし、父にもそれを気にしているような節はない。
 長期の連休などがあったとしても、帰省の話が出てきたことなんて一度もなかった。
 だからこそ気にもなる。
 それで結局、手紙に添付されていた切符を手に、今夜の大阪発の夜行列車に乗り込んでいるのである。

 ふと宗佑は、自分のボックス席の前に立ち尽くす影に気づく。席の頭上に意味の解らない巨大な箱のあるこの電車では、目の前の通路に人が立つと光が大きく遮られてすぐに解る。
 見れば、ボックスの前に立っているのは少女だった。歳も宗佑と大差ない。しかも周囲に親の姿は見当たらない。
「あの、隣いいですか?」
 返事は言葉に出さなかったが、宗佑は静かに、二人分の席を占拠して散らかしていた自分の荷物を一人分にまでまとめ、残りの二人分を明け渡してやる。すると彼女は、小さく会釈をしながら彼の対角の位置に座った。既に向かい側の二席は老夫婦が座っていた。これでこのボックスも埋まり、ますます車内は蒸し暑くなる。
 席に着くなり、彼女は黒い帽子を目深に被り直し、目もとのサングラスさえも見えないほどに顔を隠した。
 べつに興味のない宗佑は視線を車窓に反らす。車窓に見える住宅の電気は大半が消えていた。寝ているのが殆どだろう。そしてこれからさらに列車は深夜へと入り込み、同時に人家のない田舎へと足を踏み入れる。
 高熊窪に着くのは明日の夕方だ。降りてからが長い。まだ随分先の話である。

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