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美しいことを強要されるいわれはない


 

 よく【正しい日本語】と並んで使われる言葉に【美しい日本語】という言葉があります。
 【乱れた日本語】を使う人間に対し「日本語は美しく使いなさい」みたいなことを言うような時に頻繁に出てきます。

 さて。
 軽々しく【正しい日本語】と言い放つ人の言葉の中に【正しい日本語】が存在しないことをすでに説明しましたが。
 では【美しい日本語】とは何でしょうか。

 私はいつも思うのですが。
 「美しい」という価値観は主観的なものですよね。
 例えば有名な美術品が目の前にあったとしても、それを美しいと評価するかどうかは誰かが決めることではなくて見た人が決めることです。
 否定するとすぐ「あいつは解ってない」みたいな言い方をする人もいますけど、解ってないのはお互い様というか、個人の価値観なんて他の誰かに理解できるものではありません。

 使われた【美しい日本語】という言葉の大半は、【正しい日本語】とほぼ同様の意味であると思われますが。
 それ以外のものがあったとしても、他人に【美しい】ことを強要されるいわれはありません。
 その人にとって美しいかどうかはその人にしか理解できず、他の誰が見ても普遍的に美しいなんてことはありえないのですから。つまりここで言われる【美しい】とは「その人の思う美しさ」であって、そんなものを他人に強要するとは恐ろしい話です。「日本語を美しく使いなさい」って、つまり「俺が美しいと思う言葉づかいをしろ」という意味でしょ。もはや恐怖政治ですよ。

 古文とか和歌とかを紹介して、「ここの表現が美しいですね」みたいなことを言う人もいます。
 それはアリだとは思いますが、学校教育では「美しいのです。美しいと思いなさい」みたいな無理強いが多いですよね。
 それも恐怖政治です。先生が美しいと言ったら美しい。白いと言ったらカラスも白い。そんな教育でいいのでしょうか。
 ちなみに文学の研究において、表現が美しいかどうかはどうでもいい。先述のとおりそれは個人の価値観に過ぎず、他の誰かが理解できるものではないし理解すべきものでもありません。証明のしようの無い話です。主観なんか議論において無価値です。
 「国語はあいまいで嫌いだ」という話をよく聞きますが、文学研究において証明の不可能な話は問題にもなりません。文学研究だって論より証拠の世界です。
 もちろん、日本語研究もです。
 そこへ、証明不可能な「美しさ」を尺度にして人の言葉づかいに口出しをするのは本当に許しがたい暴虐だと思い ま   す! ませんか! ましょう!
 自分の考えが正しいという盲信がなければ、【日本語は美しく使え】なんて傲慢な言葉は出てきませんよ。

 それと断っておきますが私はただの一般人です。学者でも何でもありません。
 学者ではないですが、これだけは言えます。
 自分にとって美しいものが、他人にとっても美しいとは限らない。博物館に行って有名な作品を見て、もしイマイチ何も感じる所がなかった時に「美しいだろ」って言われたら何を見たって楽しくないでしょ。まして趣味で何か作って満足のいく仕上がりだった時に「美しく作れ」なんて言われたらやる気なくしますよね。
 そんなあいまいな「美しい」という価値観を振りかざして、「日本語は美しく使え」だなんて本当に美しくない命令です。
 そんなことより、素人でも【観測者】の立場で日本語に起こる【現象】についてアレコレ考えれば、美しいと感じる時はきっとあると思います。私なんか【ら抜き言葉】にも【2ch用語】にも美しさを感じますがね。

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