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 第一章 河辺博輔(1/5)


 十月の半ば頃のある夕方の出来事だ。
 その時俺はこう言った。
「やめろ!」
 大事なことに気付いたのは、その一言を言ってしまった後だった。
 大事なこと、とは俺がそんなことを言っている場合ではないということだ。どうしてそんな大事なことに気付く前に口を開いてしまったのだろう。
「ああ?」
 と言い返された頃にはもう後の祭り。
 目の前にはこちらを睨む大柄で柄の悪い金髪の男。たぶたぶの服とゴツい金属のネックレスやらピアスやらメリケンサックやら。そしてその後ろにももう二人似たようなのがいる。そしてその三人に囲まれているのは、黒髪短髪で制服をタイトに着こなしてうずくまっている男子生徒。
 全員同じ高校の学生服を着ているというのに、友愛のムードなどどこを切り取っても全く感じられない四人組に向けて俺は声を出してしまったのだ。
 俺の声に呼応するように、うずくまっている一人を除いた手前の三人の敵意は俺に向いた。
 それでも今なら背を向けて走って逃げれば逃げ切れる。
 が、俺が逃げたあと、うずくまっている一人はどうなるのか。
 彼はこちらをじっと見ていた。
 俺が走って逃げるということは、引き続き彼がこいつらのおもちゃになるということだ。
 さて、どうするか。
「やめろ? じゃあ変わりにおまえが殴られてくれるんか!?」
 ああ。もう、遅い。
 殴られれば、まあ死ぬことは無いにしても病院のお世話にはなるだろう。
 抵抗することはできる。自分で言うのもナンだけど、この三人のうちの誰か一人ぐらいにだったら勝てると思う。
 だけど。
「なんだ口だけか? 腰抜けがっ」
 その通り。俺は口なら出せる。でも手が出せない。
 なぜなら。
「ヤッチー、こいつ面接あるからケンカできないんだよ」
 ああ、何でそういうことは覚えているんだ。
 そうだよ。そういうことなのだ。
 傷害事件なんか起こそうものならせっかくこの手で掴んだ推薦入試が取り消されてしまう。将来の安定が。確実で楽な安泰の進学が。これまで二年半の高校生活の全てをつぎ込んで勝ち得た権利が。
「じゃあこいつ口だけで手は出せないってことだな」
「やっちまおうぜ」
 後ろにいた二人のうちの一人も俺の目の前まで来た。
 威嚇の代わりに唾を吐く。それが俺の足元につく。
「待てよ、顔に傷つけてやりゃいいんじゃね?」
 ああそうだな、そうだよ。そうだろうとも。なんでそんなところに頭が回るんだ。
 顔に傷がついていれば必ず面接で疑問に思われるだろう。
 不良に殴られましたなんて言えば、こっちが手を出していないとしてもやっぱり印象には大変なマイナスだ。
 ケガの経緯なんて調べればすぐに知れる。「転びました」は通用しない。
 こうなったら選択肢は一つ。
 やっぱり背を向けて逃げる。
 逃げ切れればオッケー。ダメならアウトだけど勝率は高い。
 後になって学校で顔を合わせたって先生のいる前で暴力は振るえまい。万が一先生の前で暴力を振るわれてもそれならば言い訳も成り立つだろう。ケンカではなくて一方的な暴力で俺に一切何の非も無いことを先生が証明してくれるから何の問題もない。
 けれど。
「……っ」
 ずっと無言でこちらを見つめているうずくまった彼のことを思う。
 あの目は俺に何を求めているのだろう。
 逃げてください?
 僕は大丈夫です?
 ……そんなワケないよな。
 さて。
「さてどっちがいい? ケンカする? ボコられる?」
「それとも逃げんのか?」
「決めてみろよウンコ」
 ああ、ウンコは酷いな。聞き捨てならねえよ。
 俺だってこんなウンコみたいな連中に関わりたくなんかなかったんだ。
 人通りのないこんな場所を今日通ってしまった俺のことを俺は責めてみた。
 なんにも得られるものの無いただの逃避だった。
 周囲を見回す。相変わらず誰も通らない。第三タワーの三階。通る人なんているわけがない。この塔のこの階層には機械室しかないのだから。
 人気のない場所、確かにこんな場所を通った俺が悪いだろう。
 でもよくよく考えてみれば通った俺が悪いんじゃないんだよな。
 だって、俺は通るつもりなんて本当は無かったんだから。
 元はといえば、第二タワーから帰る途中、向かいの第三タワーのここで三人が一人を囲んで奥へ連れ込むのを見てしまった俺が悪いんだ。
 見たからここを通ってしまったんだ。見なきゃ良かったんだ。視力がいいのも考え物だ。
 でもまあ。
 見ちゃったらこうなることは仕方なかったんだ、きっと。
 ということは結局、最初から仕方なかったんだろうな。
「……いいからそいつに財布を返してやれよ。おまえが持ってるそれ、うずくまってる奴のだろ」
 あーあ、言っちゃった。
 グッバイ☆エリートコース。
「やんのかよウンコ」
「やるなんて誰が言ったんだ、俺はカツアゲをやめろって言っただけだろ」
「んだと?」
 言ったとたんに胸倉を掴み上げられた。
 こいつ、同じ学年のはずなのに俺より数倍も腕が太いんだな。
 まあ、脂肪が多いだけだろうけど。
 関係ないさ。こんな奴なんてどうせいい歳になるまで好き勝手に遊んで、後はタワーの最下層で機械室の掃除でもやってゴミまみれになって一切の好き勝手を許されず生きていく種族だ。
 一瞬哀れんではみたけど、万が一推薦を取り消されたら俺も仲間入りかもしれない。何しろ一般受験の準備が間に合わない。
 受験の結果が良くなければ最悪の場合進学が出来ずロクでもない仕事をするしかなくなる。仮に進学できたとしても頭の良くない者が集まる学校に行くことになる。そういう学校にいる者には卒業してもそれなりの職の選択肢しか提示されない。それこそ最下層の機械室の掃除とか。嫌なら全てを拒否して無職になって自殺か強制労働が課せられるか……という者も実際いくらでもいる。俺がそうならないと言う保証もない。
 この先一生酒杯も交わせない将来の貧乏クズ同士、今日は前祝に拳を交わすというわけか。
 なかなかシャレた記念式典になるだろう。
 ちっくしょーやっぱあんな弱虫のことなんか無視しときゃよかった。
 ……でも、殴られていじめられている人を無視することで得られる安心で堅実な生き方って、何なんだろう。
 事なかれ主義。なんと本末転倒な。
 でもそういえばもっともっと世界が平和だった頃、そういうのが好きな人種がいたという。事件があろうが事故があろうが見なかったことにして自分だけの平和を謳歌する、極東の島国を根城にした見て見ぬフリが得意の人種。
 この国の国民の大多数はその末裔なんだから、世の中がそういう仕組みでも何の不思議もない。
「ヒーロー気取ってんじゃねーよウンコ」
「河辺博輔だ、クラスメイトの名前くらい覚えろ」
 奴は俺の胸倉を掴んだまま、もう片方の手を引いた。一発殴るための助走だ。
 終わった。
 反撃? 堪える? 結論は一緒。グッバイ推薦。
 ああもうどうにでもなれ。
 俺は胸倉を掴まれたまま、右手の拳を握ってしまった。
 失うものが同じなら、受ける痛みは少ない方がいいに決まっている。
 手でやるか、先に足でやるか。俺の思考はもうそこまで進んでいた。
 その時だ。
「代わってあげようか?」
 俺の後ろからの声だった。

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