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 第一章 河辺博輔(2/5)


「代わってあげようか?」
 俺の後ろからの声だった。
 女の声だ。それも若い。
 あまりにも突然で意外なことだったので、俺の握った拳だけでなく目の前の相手の拳も止まった。
「ねえ河辺君、代わってあげようか?」
 誰だ。襟を締められていては振り返ることもできない。
「代わってくれ」
 ああ、でも、それって俺の代わりに殴られるって意味か? 女の子が?
 だとしたら後でいくら払えばいいんだろう。
 そんなことを思いながら。
「代わってくれ、頼む!」
「おっけー」
 次の瞬間には俺の襟を掴んだ腕はもう離れていた。
 慌てて不良を見るとそいつは必死に両手を自分の顔の前に戻していた。
 その両手に強く突き刺さったのは拳。
 続いて間髪入れずに腹へも蹴りが入る。奴の両手は顔を庇っていたのでおなかのガードはお留守。残像でしか見えなかったが肌色の足が奴の腹にめり込んでいった。
「うぐあっ」
 二発でノックアウト。
 その間、僅か五秒。
 呆けている俺の前に現れたのは同じ高校の制服を着た女子生徒だった。
「さーて後ろの二人は? 私は河辺君と違って容赦ないんだけど、ケンカする? 黙ってボコされる? 逃げるなら財布はその子に返しなよ」
 ああ、誰だっけこの人。同じ高校の制服だし。
「ぐあ」
「ぬぐお」
 考えている間に二人も倒れてしまった。
 なんということだ。
 彼女が誰だか解らない!
「河辺君」
「はい?」
「この子の財布持ってたの、どっち?」
「たぶんモヒカンの方」
「ありがと」
 倒れた男の尻のポケットに蹴りを入れるとスポっと財布が飛び出して転がった。
「ったく、下級生いじめて金取って、こーいう人達にプライドは無いのかなあ」
 両手を払う彼女。
 肩までの短いボサボサの髪の毛、その毛先の触れる襟にはブレザーの下から派手なピンクのパーカがはみ出している。頭の良さそうな格好ではない。
 彼女は財布を拾って、一番最初に絡まれていた下級生の彼の元へ行く。
「ねえ君、ケガはない?」
 うずくまっていた彼もようやく立ち上がった。腹が痛むらしくまだ手で押さえている。口の横にはニキビでも潰したような鮮やかで赤い点が一つ。
「あ、ありがとうございました」
 彼は財布を受け取る。
 そうか。俺もお礼を言わないとな。
「あの、君、ありがとう」
 パーカの胸元から見えたリボンは赤。ということは同学年なので敬語を使う必要もないだろう。
 と思ったのもつかの間。
「失礼な」
 ご立腹のご様子。
「え?」
「空知知端! クラスメイトの名前くらい覚えろ」
 クラスメイトだったっけ?
 と思っていたら彼女は笑い出した。
「そう言った頃までは河辺君カッコ良かったのになあ」
「……冷やかすなよ」
「手を出せないって辛いよねえ」
「……」
 ああ、そうだ。
 クラスにいたよこんな奴。
 こいつは朝来て帰るまでずっと寝てるからロクに顔を見たことがないんだ。
「……あ」
 と空知が言った。
「どうした?」
「パトカーが来る」
「え?」
 耳を澄ますとサイレンが聞こえた。確かにこれは緊急車両のサイレンだ。
「君が呼んだのかい?」
 最初に絡まれていた下級生の彼に俺は聞いた。
 彼は首を横に振る。
 じゃあ何だ? どこか別の場所で事件でもあったのか?
 それとも誰かがこの場を見ていたとでもいうのか? 見えるとしたら俺が見たように隣のビルからだが、あの距離で状況をよく確かめもせずに通報したというのか?
「もしや」
 空知はそう言いながら、足元を一瞥。
 彼女の視線の先、地面に寝そべった一人の手に握られた白く光る機械を俺は見つけた。空知もそれを凝視していた。
「くくく、俺達に逆らったことを後悔し……」
 言い終わらせる前に空知のつま先がそいつの額を突き刺した。
「がっ」
 と言って不良は突っ伏した。
 あーあ、ありゃ痛いよな。
 他人事のように見ていた俺は視線を空知に戻す。
 サイレンが近づく。
 ビルの下まで来たかと思うと、白バイは壁を駆け上ってこの三階の廊下まで飛び込んできた。
 電球色の薄暗い光の中に、赤い光が規則正しくきらめく。
 エンジンが切られて車体が接地する。
「この三人を倒したのは誰だ?」
 だが空知は警官を無視し、こちらを見て。
「御代は今度貰うよ」
 と言い出した。
「……」
 俺の一生を左右する選択肢を支えてくれたのだから、つれない答えは返せない。
「……いつでも言ってください」
 俺のその回答に、彼女はニッコリ笑った。
 そして今、警察官に向かって。
「私がやりました」
「証人は」
「そこの二人です」
 それを受け警官は俺らの方を見る。
「この女が彼らを倒したんだな?」
「えっと……」
 さてどう答えたものか。
 先に下級生の彼が言う。
「僕はそこの倒れている男に顔面と腹を殴られました。彼女は僕を助けるために……」
 警官は首を彼に向けて。
「助けるがどうとかは関係ない。この女が彼らに何をしたか、事実を聞いている」
 と言った。
「えっと……」
「事実を聞いているのだ。見聞きしたものを言うのに何を悩む必要がある。ありのまま言え。それともこの女とおまえらは共謀しているのか? 庇おうとでも思っているのか」
「えーと……」
 彼はそれ以上を言わなかった。
「ではもう一人の君、答えろ」
 俺かよ。
「彼女は何をしたんだ」
 道連れ、というわけだ。
 今俺が何をどう答えようが結果は一緒だ、ここで起きたことはいずれ全てこの警官に把握されることになる。この国の人間の行動は全て監視されていて、必要ないときはスルーされているが必要な時はごまかしようもなく穿り返される。
 空知がやったことは正当防衛に近い。でもその手段として用いられた暴行は当然吟味される。当然相手の奴らは捕まるだろう。でもそれで空知の罪が軽くなったとしても無かったことにはならない。
 警官が俺達に問うているのは、俺達が空知の暴行を指示したりしていないかどうかだ。
 これはたぶん証言だけで全てが決まる。
 でも、空知一人に罪を被せられない。
「言え、言えないのか」
「えーとえーと」
 答えに窮する俺を遮って、空知が言った。
「私は彼らをぶん殴りました。おまけに通報を妨害するためにトドメも刺しました。君達も全部見てたから知ってるよね?」
 空知が俺らに促す。
 警官は俺を見る。
 ああ、そうだよ。
 空知は何ひとつ嘘はついてないよ。
「うん」
 と俺は言った。
 その結果、彼女とロクに動けない不良達は白バイのサイドカーに詰め込まれて、警官と一緒に壁から下へ落ちて行った。
 サイレンと赤灯が向かいの第一ビルに飲まれていく。
 カツアゲされていた彼は無言で別れて帰っていった。
 最後に残された俺は予備校の教科書と大学のパンフレットが入ったカバンを手に持ったまま、とりあえず自分の頬を触った。
 傷一つ付いていなかった。

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