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第一章 河辺博輔(3/5)
それからというもの、日々の暮らしは至って平和なものではあった。
無事に面接を受けることも出来た。もちろん合格だ。
そして、あの日カツアゲをやっていた奴とはそれから何もない。
何もない、というのは本当に何もないのだ。何日か停学を喰らっていたからきっと奴らの罪も明るみに出たのだろう。だが今は普通に教室に来る。俺に一瞥をくれることもなかった。全くの他人で、存在が遠くなかったわけでも近くなったわけでもない。
あの日のことは完全に「無かったこと」になっている。
それはそれで助かった。
面接も終わったので多少のケンカならもう大丈夫だが、報復なんかされて進学が取り消されてはたまらない。
平穏に。平穏に。それだけが俺の願い。あと半年間の願い。
このまま続けば良かったとか思っていた。
思っていたんだけれど。
「おはよう」
聞き慣れない声で挨拶をされた。
振り返ると教室の入り口に空知が立っていた。
呆気に取られていると。
「河辺君おはよう」
再度、今度は名指しで挨拶された。
「あ、ああ。おはよう」
このあいだ俺は空知の名前を覚えてなかったのに、そんな俺に挨拶をしてくれたのか?
あの一件の縁で?
「今まで何してたんだ?」
「えへへ、停学喰らっちゃった☆」
「警察には? 罪とか」
「暴行だって。やり過ぎたから仕方ないね。まあでも向こうも傷害と恐喝でしょっ引かれてるし」
よく笑いながら言えるもんだ。
「あの、それって経歴に傷が……」
「関係ないよ」
と言って空知は自席へと着いた。
……と思ったら机に突っ伏した。
すごい、もう寝てる。
空知は本当に寝ていた。
ホームルームも。一時間目も。二時間目も。
が。
三時間目で事は起きた。
「空知、やっと出てきたと思えば寝っぱなしで。おまえは何しに学校来てるんだ」
数学の島居は板書を中断し、教科書を丸めて空知の席に向かった。
あーあ、こりゃやられるな。
島居は相手がバカだろうと女子だろうと容赦しない。体罰だと騒がれても真っ向から争うからそう思え、俺は教育者だから相手が親であろうと価値観の違う人権論者であろうと教育してみせる、などと宣言した程に頭がカチンコチンだ。ちなみにいつも尻ポケットに突っ込んである退職願は本当に本物だ。まあしわくちゃだから本番では使えないだろうが。
そんな島居が怒り始めたので、寝ている者は誰か近くの奴が起こし、起こされた本人達は静まり返った空気を察知して初めから起きていたフリをする。
でも空知は起きない。もう島居は目の前だ。
「聞いているのか!」
いい音が鳴った。
やっぱり教科書が空知の後頭部を殴打したのだ。
勢い余って机まで鳴ったぞ今。
「……いったっー……」
教室が静まり返った中で、空知の小さな声だけが教室に聞こえた。
「何をしに学校へ来ているんだ。勉強をする気がないのなら辞めてしまえ」
「はい」
辞めろは酷いよな。
とは言っても、この島居にそんな感情的な次元で反論したところで「高校は義務教育ではない」の一言で片付けられてしまう。普通、学校の先生なんて生徒から「だったら辞めてやるよ」とでも脅されたら最後には「いや考え直した方がいい」なんて言ってしまうものだが、島居は違う。島居に「辞めてやる」なんて言ってしまった奴は八割がた、最後には親と共に泣いて謝って学業の継続を嘆願する羽目になるという。ちなみに残り二割はつまらない意地を張った挙句本当に教室を去らざるを得なくなるとか。
「辞めろ」という言葉の是非についてはこの場で何度も繰り返されてきた議論だから誰も空知の代わりに反論する奴はいないし、空知だって反論しないようだ。
俺の前の席の相内が振り返る。
そして小声で。
「なあ河辺。今、空知は何て言った?」
「……ん?」
そういえば。
空知は今、島居の言うことに反論しなかった。
反論しなかったどころか肯定した。よな? 気のせいか?
島居は続ける。
「学校は勉強をしたい者が勉強をしに来る所だ。勉強をしたくない奴は来なくていいし、寝たい奴は家で好きなだけ寝ろ。学校に来なきゃいけないなんて法律はないんだぞ」
「そうですね。明日から来ません」
「……あ?」
「進路決まったんで、もう来ません」
「何だと?」
そんな返答は想定していなかったのか、島居の強圧的な態度もさすがに崩れた。
「進路決まったって、おまえずっと休んでたら卒業できないし進路取り消されるぞ」
「向こうがそれでいいって言ってるから平気です」
クラスも、先生をも置き去りにした空知は一人で笑って。
「そういうわけなんで」
と勝手に締めくくった。
「そ、そうか。そういうことなら仕方ないな」
島居は黒板へ向き直る。
「逃げたなアイツ」
「ああ」
もう何が何だか解らないやり取りであったが、島居の負けだということは確かだった。
そんな空知だが昼のチャイムが鳴ると行動は素早い。
チャイムが鳴るのは十二時三五分。
四時間目の教師が教室を出るのと同時に席を立ち、素早く廊下に出てパンを買いに行く。
どこで食べているのかは知らないが早々に食べ終えるとまた教室に戻ってきて、十三時前にはもう寝ている。
……が。
明日から来ないということは、そういえばそれを見るのも最後なんだな。お礼はちゃんと言っておかなきゃな。と思って空知が席を立つ様子を見ていたら、何と彼女は真っ直ぐに俺の席へ向かってきた。パンを買いに行く時のような速さで、購買ではなく俺の席へ。
「河辺君」
まだほとんどの生徒が席を立ってもいない教室の中で。
空知は俺の名前を呼んだ。俺の目の前で。立ちはだかるような姿勢で。
「忘れてた。ほら、こないだの約束」
……あ。
警察に連れて行かれる前、空知が口にした言葉を思い出した。
「御代≠チて奴?」
「そう」
「……いくらだ?」
「ヤだなあ、お金なんか。結果はどうだったの?」
「結果?」
「面接受けたんでしょ?」
「あ、ああ。合格したよ、おかげさまで」
「そう」
空知はべつに、大した反応も見せず。
「おめでとう」
と作り笑いだけ見せて背中を向けた。
早速教室を出て行こうとしている。
……待てよ。
俺の人生を左右する手助けをしてくれたのは誰だ。空知だ。
その人は俺のために喧嘩してくれた。圧勝だったからいいものの、もしかしたら空知自身がケガをするかもしれなかったのに。
しかも、自身は停学まで喰らって。
それで。
その御代が。
俺の結果を聞くだけでいい、だと?
本当にそれだけで?
聖人かよ。
「ちょっと待てよ」
「ん?」
振り返った空知は既に無表情。怪訝そうな顔一つしていない。
「もういいのかよ」
「いいよ」
「だって、俺、助けてもらったんだぞ」
「助かったんでしょ、私はそれが聞ければ十分」
「いや待てって。それじゃ俺の気が収まらないんだよ!」
「押し付けがましいな……」
少しだけ苦笑いをしたけれど。空知は再び、当然といった顔で。
「もう十分だよ」
と言った。
有難迷惑なのか?
俺の謝意が?
いやそんなことはあり得ない。聖人かコイツ。
「いくら欲しい?」
「いやだなあ、現金なんか要らないってば」
「じゃあ何か欲しい物あったら言ってみてくれ」
「物? 物は何も要らない」
「じゃあ、えーと」
商品券?
でもそれ現金と変わらないよな。
「何かおごるよ、食べ物でも」
「……」
「好きな店でいいから」
「……はあ」
空知はため息をついて。
「じゃあいいよ、ご飯ごちそうしてもらう」
と言った。
「つっても有り金なんて一万円も無いけど」
「十分。っていうか本当にいいの?」
「何言ってんだよ。助けてくれたんじゃないか」
「助かってくれたならそれでいいのに。それ以上でもそれ以下でもなく」
それだけ言って、空知はまた机に戻った。
強情な聖人だった。
というよりも俺の方が無理やり押し付けただけのような気がする。
こんなことでいいのか。でも何もしないよりは。
……待てよ。待て。
冷静に考えよう。
事情はともあれ、今の会話の意味するところは。
「デートかい?」
と、前の席に座っていた相内には当然そう聞かれるわけだ。
「いや、ワケありでさ」
「ワケってどんなワケだ?」
「いやちょっとした関係で」
「関係ってのは飯をおごるような関係か?」
「まあそうなんだけど」
「ちょっとした関係って女の子を相手に飯をおごるほどのワケを持ちうる関係なのか? 大した関係じゃないか」
「えーと」
「他に誰か行くのか?」
「一人だと思うけど」
「男と女が一対一で飯食ったら立派にデートじゃないか! しかもおごり! 何より、おまえの方から誘ったわけだ」
相内は鼻息を粗くする。
「進学の春が来ても恋愛の春は絶対来ないと思ってたが。ついに河辺がなあ」
「違うってば」
「しかもなんだ、よくアレと会話できたな」
「どういう意味だよ」
「さっきの島居とのやりとりを聞いてただろ? あいつよくわかんないじゃんか」
「そんなこと無いと思うけど」
「いーや、ロクな女じゃない」
「なんでおまえが詳しいんだ?」
「俺じゃないよ、詳しいのは」
と言って相内は横を振り向いた。
「なあ内藤ちゃん」
相内の首の先には女子のグループ。
その中の一人、内藤京子が相内に応じる。
「そうよ、あの子の男関係最悪だしね」
「だそうだよ河辺君」
男関係が最悪?
「だって私よく見るもの。男の子と一緒にいるところ。しかも年上、たぶん社会人。でも相手が毎回違うの」
「だそうだよ河辺君」
それは知らなかった。俺もその一人ということになるのか。
「それに何度も停学になってるしね。ヤバいこと色々してるんじゃないの?」
「だそうだよ河辺君」
そういえば彼女を全然見ない時期が今までにも何度かあったようななかったような。停学処分といったら相当のものだ。今回の場合は致し方ないとはいえ。
「河辺君もあの子のおもちゃの一人なんじゃないの?」
「だそうだよ河辺君」
相内うざい。
「というわけだから、あの子とは付き合わない方がいいよ」
「その通りだ河辺君」
相内はそう言って笑ってから内藤に礼を言った。
女子のそのグループは「そういえばあの子さあ……」で盛り上がっている。
まあ、確かに。
登校してもいつも寝てる。俺が顔を見てもクラスメイトであることに気づかなかったくらいだ。登校していなくても気づきもしない。
誰かと一緒にいるところもあまり見ない。
それだけで変な奴とは言えないけれど、確かに筋金入りの変わり者ではあるんだろう。