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第一章 河辺博輔(4/5)
放課後、俺は学校の入り口に立っていた。
学校と言ったって、昔の日本の漫画やドラマに出てくるような平べったい小さな建物ではない。一辺が三百メートルもある巨大なタワーの一四五階の全面を陣取っている。エレベーターから降りたところにあるホールが入り口で、校舎という概念はここには存在しない。俺は今その入り口にあたる、エレベーターの前の壁に寄りかかっている。
目の前を通るのはみんな高校の学生。紺のブレザーを着た男子も女子も一様にエレベーターを目指す。行き先はそれぞれで、南のタワーに向かう者がいれば、昨日の俺みたいにこのタワーの別の階でこの後も勉強を続ける者もいる。
「よう、彼女を待ってんのか?」
女子を三人も引き連れた相内が歩いてきた。
「彼女じゃない」
そうさ。
ワクワクなんて少しもしてない。
俺は恐れているんだ。
空知がここに来る瞬間を恐れて待っているんだ。
「ま、いいや。フラれたら慰めてやるからフラココ来いよ」
「フラココ?」
「Nタワーの二十六階に入った新しいアイス屋だよ。今から行くんだ」
「あっそ」
どーだっていい。
「フラれたらここに来いよ、フラココ。なんちゃって」
「アハハハハ、相内君おもしろ〜い」
「んなことないさ、ハハハハハ」
この野郎。人のことネタにして笑いを取ってやがる。
相内は甘味に対する造詣が非常に深く、新しい店の情報は大抵噂になるより早く知っている。それをエサに女子生徒を釣っては楽しくお茶して帰るワケだ。
もちろんそれだけじゃなくて、ルックスとか話しやすさとか要因はいろいろあるのだろうが、なんとも羨ましい限りだ。女好きだが嫌らしくない、この絶妙なさじ加減はきっと先天性のものなんだろう。
でも今の、オヤジギャグに近いよな。フラれたらココ来いフラココ、だって。明日黒板に書いてやろうか。
「じゃーな河辺」
と言って女子三人を従えて一番左のエレベーターに消えていった。
ああ、そういえば今の中に内藤さんもいたな。
あの子この頃いつも一緒にいるな。
「……おはよう」
本日三度目の挨拶を口にしながら、いつの間にか空知がそこにいた。
「どうしたの? その顔」
目が半開きだ。
「気付いたら教室に誰もいなかった」
「ずっと寝てたのか?」
「どうして起こしてくれなかったの?」
「俺体育室掃除だったから。そのまま来ちゃった」
「あっそ」
空知は生返事でエレベーターのボタンを押した。
左から五番目の台が接近合図を出す。
その五番目のドアの前に移動して到着を待ちながら。
「好きな店でいいって言ったよね?」
「あ、ああ。どこに行く?」
俺はそれが一番怖い。
あんなやり取りをした後だから、まさか法外な値段を取る店に行こうなんていわないだろうが。
俺の財産なんてお年玉だけだ。それを超える金額は当然だが支払えない。まあ親を呼べば何とかなるだろうがそれも恥ずかしい。
「上」
「最上階じゃないよね?」
「もちろん最上階」
脅かしやがって!
空知がエレベーターに指示したのは二五七階だった。
最上階なんて程遠い。庶民向けの商店階の一角だ。
空知が不機嫌そうに指差したその店で俺はようやくため息をつける。
「いい?」
「いいよこの店なら。おごらせてもらいます」
ガラスケースに飾られたメニューを見て誰に言うともなく指差し、俺がまだ見ているのに先に店に入っていってしまった。
「何名様ですか?」
というスマイル垂れ流した店員のお姉さんにも。
「……」
指でVの字を作って答える。
「二名様ですね?」
頷いただけ。
口を使えよ少しは、と思う。
「こちらのお席でよろしいでしょうか」
窓際の席に案内された。
窓際といっても、ここからでは隣接する南タワーしか見えない。かすかに空の光が入り込んでいるがこの階では太陽を見るにも至らない。
「大丈夫、この店なら何頼んでも大丈夫だから」
そう言ってメニューを渡しても空知は五秒も見ないで閉じてしまった。
「え? もう決まったの?」
「うん」
と言ってメニュー表を返される。
空知が何を選んだのかがわからない。俺は念のため一生懸命安いものを探して店員を呼ぶ。
その間も空知はボーっと外を眺めている。
「こういう店好きなの?」
と聞いてみた。
「嫌いじゃないけど」
とは言うものの空知は首を傾げてしまう。
「じゃあなんでこの店に」
「安いし、落ち着いてるし」
「……」
俺に気を使ってるんだろうけれど。
こっちはお礼のつもりなんだから、それでは報われない。もちろん俺にだって上限があるんだから偉そうなことは言えないんだけど。
「ご注文は?」
「揚げ物の盛り合わせ」
「私はハンバーグランチ」
「三種の揚げ物盛り合わせとスペシャルハンバーグランチセット、以上二点でよろしいですか」
実に簡潔に注文を済ませた。
「……そんな安いのでいいの?」
「いいよ」
頬杖をついて、まだ窓の外を眺める空知。
「……何かさ」
俺は我慢できずに口を開いてしまった。
「実際、あまり高いもの頼まれても払いきれないんだけどさ」
空知は頬杖をついて顔を横に向けたまま、目だけでこっちを見た。
「俺、ちゃんとお礼したくて今日ここに来てるんだけど」
「……」
空知は黙って、まだ横を向いたまま少しだけ目を見開く。
「遠慮しないでくれよ、お礼くらいちゃんとさせてくれよ」
「要らないって言ったよ」
「でも! そんな安いので満足されたって困るよ!」
「……」
空知はそれから、ため息をついて。
「君のお礼って値段の問題なの?」
と言った。ようやくこっちを向いた。
「安い物でも雰囲気はちゃんと味わうよ」
「……え? 雰囲気?」
そんな返答は想像していなかった。
「味とか値段とかどうでもいいけど、誰かと一緒に食事するのは楽しいから」
「誰かと一緒って……。昼いつも教室にいないのは誰かと食べてるんじゃないのか?」
「一人だよ」
「でも、朝とか夜とか」
「一人だよ」
「……」
なんか、ごめん。あまり聞かない方がよかったのかな。
次に何を言おうか考える俺へ、空知は。
「親に会ったことが無い」
と、俺が触れないようにしていた部分を自らこすりつけてきやがった。
「……亡くなったの?」
「生きてるでしょうよ。不適格者だったから私は育成所に送られたけど」
ほらみろ聞きたくない話が出てきた。
「……そっか、育成所育ちだったのか」
きっとこの間の不良達も、将来もし子供を産んだらそうなるのだろう。
こうなることをわかっているから下層の人間は大抵子供を作ろうとしない。仮に子供を産んだとしても親がロクな育ち方をしていない人間なので、教育の資格無しとして子供は政府に取り上げられる。その子が適正な教育を受けた上で真っ当な人間として成人したら、父母と子と政府の三者同意の上で会えないこともないそうだが。
ということは、空知の親もそのように、若いころからチャランポランしていて。政府に取り上げられるとわかっていても子供を作ったワケだ。
「それからずっと一人?」
「そうだね。でも変な親に育てられるより育成所の方が真っ当な人生送れると思うよ」
進路決まったからといって高校の授業を途中で放棄することが果たして真っ当な人生だろうか。
「一人は気楽だしね。自分で何でも好きなようにやれるし」
平然と言ってのけるが、こいつはこの若さで一人暮らしをしているというのか?
育成所は親のいない子や肉親が親として不適切な子が成人するまで面倒を見る。だが本人が希望して自活能力有りと認められれば年齢に関係なく独り暮らしができる。
「でも、だから、その、何っていうのかな。誰かと食べるご飯ってすっごく楽しいの」
「……そうか」
「それに一人じゃこんな店来ないしね。そんなにお金はもらってないし」
ちょうど二つのプレートが運ばれてきた。片や空知のハンバーグ。片や俺のから揚げとポテトの盛り合わせ。
「それじゃ河辺君、いただきます」
「どうぞ」
安いもんだよ、八百八十円だろう?
俺は八百八十円で俺の将来を守ってもらったんだよ。良心的な値段じゃないか。
「ところで空知さん」
「何?」
「俺なんかと一緒にいて大丈夫なの?」
「なんで?」
「彼氏が何人もいるって言うから」
ブッって言った。空知の口がブッって言った。
慌てて紙を口に宛てる空知。
「……何それ。私が誰と?」
「さあ」
「誰かが噂してたの? 誰が?」
「えーと」
「誰?」
ここで名前を出したらまずいよな。
というか言わない方が良かったのか?
「あれ、何人もいるんだっけ。それとも取っ替えひっ替え?」
俺は論点をずらした。
すかさず空知が。
「一人もいないよ! ずっと!」
と珍しく強い口調で言い返す。
よかった、話を反らせられた。
「え、一人も?」
「そうだよ!」
「でも前に誰かと歩いてたみたいだし、年上だって言うし」
「年上……あー、アレか。もしかして河辺君も見てたの?」
言いながら空知はハンバーグにナイフを入れる。
……食べ方が子供だな。とりあえず一通りナイフで細切れにしてから、かけらを右手のフォークで食べている。
「まあ誤解されても仕方ないけどね。それは育成所の人だよ」
「育成所の人?」
「そう。私は独り立ちしてるけどまだ子供だから、定期的に面会してまともに育ってるか見られるってワケ」
うわ、こいつパセリまで食いやがった。
しかも苦そうな顔一つしないで。
「その時にご飯ごちそうしてくれたりするんだよね、なんだかんだでみんないい人だよ」
ああ、また地雷を踏んでしまった。
空知はその話題に触れられるのが嫌ではないようだが、俺としては返答に困る。
ふーんそうなんだ、としか答えられない。「大変だね」とか言っても全く無意味だし。
というわけで話題を変えることにした。
「あのさ、空知さん」
何?
細切れになったハンバーグを口に運ぶ空知に。
「今更なんだけど」
「うん」
「食べ方間違ってない?」
「……………」
空知はフォークを口に挟んだまま、少し顔を下げた。
そのまま目だけ俺を見る。
……上目使いだ。
そしてそのまま俺を見つめ続ける。表情に変化はない……が、顔が少しだけ赤い。
「ごめん」
「あ、いや、別に謝ることじゃ」
「やっぱこの食べ方恥ずかしいかな」
「あー、うん、まー」
俺は、そういうことはつい指摘したくなる性格だ。
でもその後で気づいた。
そう、空知には親がいない。
ナイフとフォークの正しい使い方なんてロクに教わっていないのかもしれない。
「……」
空知は今度は目を反らして。まだ手を動かしていない。
「あの、怒ってる?」
「べつに」
と言って首を振る。
ますます顔が赤い。
「今日はもう全部切っちゃったし、しょうがないんじゃない?」
「……うん」
その小さな返事を聞いて気づいた。
怒ってるんじゃない。恥ずかしいんだ。
空知が再び手を動かし始めるまでもう少しかかった。