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第二章 川畑ギブス(1/2)
昔、今のこの国で主要な民族とされる人種の人間が住んでいた島国があった。
その国が最後に戦争をしたのは何百年も昔のことらしいが、その時はあまりにもたくさんの人が死んで兵士の数が足らなくなったらしい。
そこで行われたのが、徴兵と呼ばれる強制動員。
主に呼び出しに用いられた令状が赤かったため、「赤紙」と呼ばれていたそうだ。
戦争自体を知らない人はそうそういないだろうが、赤紙なんてキーワードが出てくるあたりは我ながら自分に感心した。僕は歴史が数少ない得意科目だ。
だからそんなどうでもいいことを覚えていて、今もそれを思い出してしまったのだ。
その赤紙にも似たメールが、僕のパソコンに届いていた。
ご丁寧だ。召集の当日僕の監視はオンになるらしい。赤紙の時代には逃げ出して憲兵に追われる人もいたらしいが、この国では逃げる気にもならない。なぜなら政府は常に全国民の全ての情報を掌握しつつ必要な情報以外は捨てていて、監視をしようと思った時は不要な情報を捨てるのをやめるだけで簡単に可能になる。集合時間の前に僕がそこに向かっているかいないかも、集合時間に現れなかった時僕がどこにいるかも完全に筒抜けで逃げようがない。
逃げる算段が無駄であることを考えながら、何か少しでも自分に都合の良い情報がないかとメールを何度も読むが、文面は一文字たりとも変わることはない。解釈が変わることもない。
「どうした? そんな怖い顔して」
「え?」
僕はパソコンの画面を閉じた。
クラスメイトの河辺君だった。
「い、いや、なんでもないよ。それより君、僕なんかの心配するより勉強はいいのかい?」
「何言ってんだよ、俺はもう推薦で決まったぞ」
「推薦……」
推薦で進学。そんな選択肢はとうに消えた。
もう後悔しても遅い。
どこにも逃げられない。
家に帰ると今日は父も母も家にいた。
心臓が止まるかと思った。
「……ただいま。あれ? お仕事は」
「今日は早く終わったんだ」
部屋に行って荷物と制服を片付ける。するとリビングにはオードブルが。
「どうしたの? これ」
「宅配してもらったんだ」
また心臓が痛む。
呼吸が止まったのかと思ったがちゃんとしていた。……なんだ今の感覚は。
なんとなく席に着くと、両親も席に着いた。
そのままの流れで夕飯が始まる。
まだ十七時前だ。でも始まってしまったものを今更止めることもできない。
「ギブス」
父が言う。
「何?」
「おめでとう」
「……」
食卓の音が止まった。
母も僕も箸を止めていた。
「その……何だ。いい仕事だと、思う。人のための仕事だ。俺も誇りに思っているぞ」
「……」
今まで勉強しろと言っていたのは何だ。
その勉強が何もできなかったがために与えられた仕事を何故誉める。
「やっぱり男に生まれたからにはたくましく生きなきゃな。父さんもそんな風に思っていた時期はあった。良かったじゃないか、これはチャンスだ」
「……そうだね」
箸が、箸を持つ手が動かない。
「堅実な仕事だ。みんなから尊敬されるぞ。いやあ仕事が決まって良かった。良かったぞ。良かったな」
そういう父だって箸が止まっている。
「そうだ、お酒を開けよう。母さん、ギブスにもついでやってくれ」
「待って。僕は未成年だよ」
「なに、これからは職場で飲まされることだってあるだろう。練習だ、なあ母さん?」
母さんは黙って銀色の缶を持ってきて、注いでくれた。
大人になるためまでダメと言われた黄色い炭酸の飲み物。白い泡を吹いている。
「そうかあ。遂にギブスと乾杯する時が来たか。乾杯!」
「……乾杯」
ってなんだこれ、苦いだけだ。こんなに酷い飲み物だったのか。
「ハハハ、ギブスにはまだ早かったか」
今日の父は。
ビールを片手にした時のお決まりの名文句「勉強しろよ」を言わなかった。
今日はそれは無かった。
いつものそれが。
僕の人生って、何なんだろう。
部屋に戻って、ベッドに体を放り出して、そんなことを考え始める。
暖かい親に育てられて。十八年も勉強して。ただ勉強に勉強を重ねて育って。立派な大人になれよと言われて。
そして今、何も見えなくなった。
あの二人の親の愛の結晶は、僕の体はここにある。
でもこの体が誰のためのもので何のためにあるのか、今はわからない。勉強だけしていればよかった頃は、これは間違いなくあの二人と僕のためにあるものだと知っていたはずなのに。
積み重ねてきた勉強も、思い出も、人間関係も。もう今さら意味はない。
この後まだ半年くらい続く学校生活も無意味だ。
いま何を楽しんだって、どれだけ楽しんだって、半年後には軍に入って戦って、いつか死んで無意味になる。
何もなくなる。無意味になる。
積み重ねた勉強も。思い出も。人間関係も。無意味になる。
さっき食べた今日の夕食だって意味を残さなくなる。
友達に一生懸命勉強を教えてもらったことも。やっと取れた七〇点も。達成感すらも無意味になる。
全て誰のものでもなくなって、以後誰にも何の影響を与えることもできない過去の出来事という無意味な事実でしかなくなる。
僕は今まで、消えてなくなるだけの経験を重ねてきたことになる。
何のために生きてきたんだ。
僕の命は、人生は、いったい何のための存在だったのか。
ドアをノックされた。
「ちょっといいかしら」
母の声だった。
「落ち込まないのよ」
と、とても元気のない声でいう母。まずは鏡を見て、それでも同じセリフを言えるのなら言ってもらいたい。
だから母がこんなことを言うのもだいたい予想できていた。
「死ぬわけじゃないんだからね」
僕を諭しに来たんじゃない。
自分へ言い聞かせに来たんだ。
「軍に入っても定年まで働ける人だっているし」
もう母は僕の目を見ない。
顔を背けて。上も向かないで。
「かくまってあげることはできないけれど」
つぶやくように言う。
そう、僕に向けての言葉ではない。
「でも、必ず死ぬってわけではないから」
泣き出した。
必ず死ぬわけではないのに何故泣くんだ。
「…………」
結局顔を伏しがちにしたまま、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。
どこにも逃げられない。
親ですら助けてくれない。
あと他に、残された道は。
……。
……自殺。
それも選択肢の一つ、だ。
どうせ意味をなくした人生だ。これ以上無意味な時間を重ねるより、自分の意志で終わらせることもできる。
これは僕に与えられた最後の権利だ。
今まで勉強する権利を与えられていた。でも僕はその権利を行使しなかった。したけど足りなかった。そんな僕に与えられたのは軍に入る義務。義務から逃れる権利はない。今まではあったけど使わなかった。足りなかった。もう無くなった。
こうなったら死ぬ権利しかない。人間として生きるための全ての権利を捨てて、軍に入る義務も一緒に捨てるしかない。
……捨てられない。
生きていく権利を捨てるなんて。
あの親を見る権利を。あの親に僕の生きている姿を見せる権利を。息をする権利を。生きる権利を。捨てられるわけがない。
「……あ」
気が付いたらもう朝だった。
一睡もしていなかった。いやどこから夢の中でどこから実際に起きていたのかも全然わからない。ものすごくたくさんの考え事をしたようで大して進展もしていなかったと思う。
「……行ってらっしゃい」
母がいる。
今日も仕事を休んだようだ。
「もしかしたら軍に入らなくていい方法もあるかもしれないから、説明会はしっかり聞いておくのよ」
と言われた。
こんな僕だけど。
死んだらきっとこの人は悲しむんだろうな。
もっとがっかりするんだろうな。
自殺すれば必ず死ぬ。
軍に入ってもたぶん死ぬ。でも必ずではない。
母は、軍に行かなくても済む可能性、行っても死なない可能性に賭けている。
僕は、どうすればいい?