更地のノート>>>物語>>>P.T.C
第五章 ある恋人達
「出かけようよ」
まったく、こいつはいつの間に部屋に入っていたのか。
「めんどくせー」
今の今まで寝ていた俺の目に蛍光灯の光が突き刺さる。
何時だ。
時計を見ればまだ昼過ぎ。
「出かけよう」
「うるせー」
「ほら着替えて」
「めんどくせー。まったく、こんなことならおまえとなんか出会わなけりゃ良かった」
と言っても何を言っても、こいつは俺に服を投げつけるだけ。
俺と出かけるというこいつが無断で立てた予定は何一つ変わることはないようだ。
少しだけ寒かった。
こんな日は年に何度も無い。
空調を止めているのだろうか。
あまりにもくだらない理由だ。
「せっかく来てあげたんだから」
とこいつは笑って俺の半歩前を歩く。
「ん? おまえ学校は」
「バックレてきた」
「まったく……」
「そんくらいで死にはしないよ」
「バカ」
何でだ。
バカって言っても酷いこと言っても、この子は俺の傍にいる。
どこにも行かない。
文句すら言わない。
「マフラー要る?」
「要らん。使わん」
「寒そうじゃん」
「今日だけな」
空は灰色で。
きっとはるか上空のガラスの上では雨とか雪とか降ってるんだろうけど、そんなものはもう地上に届くことはない。
この子だって一生雨を知らないで生きていくんだろう。
もし知ることがあるとしたら、それは同時に世界の終わりを意味する。
この子が雨にうたれる瞬間を俺が見ることはきっとない。
「これ」
「……ん?」
「買ってあげる」
「要らねえよ」
「やだ」
「やだ? 俺の方がいやだ」
「やだ。買うから持ってけ」
「邪魔だ」
何の変哲も無い十字架のネックレス。
安物だ。触ってないから知らないけど、安っぽい輝きはメッキされたプラスチックかもしれない。
この子は俺の拒否の声を無視して勝手にレジを通してしまった。
「つけて」
「……まったく、なんでこんな奴と出会っちゃったんだろう」
「今日このネックレスをつけてもらうため」
「テキトーなこと言うな」
俺がつけようとしないから、こいつは勝手に俺の首にネックレスをかけてしまった。
「……早く帰れよ」
「ええ? せっかくバックレてきたのに」
「帰れ」
「無理。まだ学校終わる時間じゃないから今帰ったら親にバレちゃう」
「じゃあ学校に帰れ」
「何でそういうこと言うの?」
「無駄だからだ」
「……そうだけどさ」
無駄なんだよ。
こんなネックレスも。
今一緒にいることだって。
「死んじまったらもう終わりなんだぜ?」
「……わかってるよ」
「全部後悔に変わるんだ」
「だけど」
「やっぱりおまえとなんか出会わなければ良かったよ」
「……」
それでも何も言わずにこいつは俺の後をついてきた。
ああ、俺は何で。
もうちょっと言葉を選んで言うことができないんだろう。
今言ったことは本心だ。
だけど言い方というものがあるんじゃないか。
この子は俺みたいな枯れてしまった人間じゃないんだから。
「……プレゼントなんだから、大事にしてよね」
「……解ったよ」
クリスマス、だと。
街は昼間から賑わってる。
今ここに爆弾の一つでも落ちればみんな灰になっちまうものを一生懸命売る店員。
そんなちっぽけで脆い物体に、受け取った人の表情を思い浮かべて嬉しそうに選ぶ客。
「だいたい、無駄にならないものなんてあるの?」
と、後ろから言われた。
俺はさっきのことを言い過ぎたと思っていたけれど、向こうは意外に冷静だった。
そうだよな。
そうでなければ俺はこの子と一緒になんかいない。
「死ぬ時には全部手放すんだから、無駄にならないものなんて何一つないよ」
「……そうだな」
「あげたりもらったりしたものが死んで無駄になったらきっと辛いと思う。でも生きてるうちにあげたりもらってたりしておけばよかったって思う日がきたら、きっとそれも辛いと思う」
「……」
「私は今あげたことを後悔する。きっと辛くなる日が来るよ。死ぬほど辛くなる。それでいいと思う」
「まったく。留年になっても責任持たないぞ」
「今から悔やまない。後で悔やめばいい」
後ろをついてきたこの子は、今再び俺の前に立ち。
「君のその目つきは治らないね」
って言って笑顔を見せた。
「顔なんだから治るわけねーだろ」
と答える俺の顔を見て、更に笑顔。
どうやら俺も笑っていたらしい。
「治るよ」
「治るか、バカ」
「バカだもん」
手が俺の目の前に伸びてきた。
伸びてきて止まった。
「……」
この手を取ってしまったら、きっと後悔する日が来る。
俺はこの子を傷つけるだろう。
俺は今よりももっと弱くなるだろう。
「あったかい」
ああ。
握ってしまった。
ぬくもりを感じてしまった。
「後でよく洗えよ」
「……へ?」
「うつるぞ、人殺しが」
「関係ないよそんなの」
「……」
俺はますます弱くなっていく。
守るべきものを見失っていく。
俺が殺してきた人達にもきっとこんな優しい記憶があって。
俺にとってのこの子のような、こんな人達を脳裏に浮かべて死んでいったんだ。
「次も必ず帰ってきてね」
「保障なんかねーっつってんだろ。死ぬ時は死ぬよ」
「そういうこと言わないで」
「本当のことだろ」
「大丈夫だって言って」
「言えねーよ」
「約束して」
「約束は出来ない」
俺はそういうやり取りが嫌いだ。そうやって言葉一つに拘るのが理解できない。現実を無視して願望を言っていればどうにかなるとか思っているんだろうか。ハッピーエンドを口にしていてもハッピーエンドになるとは限らない。生きる生きると言い続けていても死ぬ時は死ぬ。
とか少し思っていた矢先に。
「じゃあ努力でいいや。最大限の努力。それで死ぬ時は私の顔思い浮かべて泣きながら死んで」
「まったく…………わかったよ、約束する」
この子のこういう現実的なところが、俺は好きだ。
ああ、また一つ弱くなってしまった。
「あと雪持って帰ってきて」
「無理だって言っただろバカ」
この街の気温では溶けてなくなってしまうということすら、この子には解らないんだろうな。
この子が雪を見る日はきっと来ない。
もし来たとしたらそれは俺が死んだ後のことだ。着の身着のままで、身の安全の保障などどこにもない不安と絶望の中で風雨にさらされて、鬱陶しくてとても恨めしそうな目で白くて冷たい塊を眺めるのだろう。
「……どうしたの? 怖い顔して」
きっとさっき笑ってしまったせいだ。
またこうして笑いたいとか、来年のクリスマスもこの子と一緒に迎えたいだとか、そんなくだらないことを思ってしまったせいだ。
俺は今日のことを忘れないで生きていくんだろう。
どんな辛い時にも死にそうな時にも今日のことを思い浮かべて、この子のことを思い浮かべて。
勝ちたいだとか勝って守りたいとかじゃなくて、帰りたいだとか許されたいだとか思ってしまうんだ。
「くそ、やっぱりおまえになんか出会わなければよかったんだ。俺は弱いんだよ、おまえみたいに強くないんだ」
俺はとても弱いんだ。
「今ですら出会ったことを後悔してる。これからもっと後悔する。会わなきゃ幸せなんか知らなかった。知らない頃は死ぬのなんて怖くなかった」
俺は耐えられない。幸せになるほど弱くなっていく。
「私は会って良かったよ」
俺とは違う。
ホント強いよな、この子は。
「私はバカだから、今幸せだったら何だっていいって思ってる。後のことなんて何も考えてない」
俺の正面に立ち、真っ直ぐに向き合って。
「一緒に後悔しよう?」
軽く目を閉じて顔を寄せてきた。
後悔したいと、思ってしまった。
第五章 ある恋人達 終わり