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君の優しさ



 親なんて薄情だ。
 今日が始まったとたん、金だけを俺の部屋に突っ込んで二人で部屋に閉じこもってしまった。俺のことをほったらかしにして二人の愛を確認し始めたのだ。
 居心地の悪い俺は昼過ぎに家を飛び出した。
 学校は一昨日から休みだ。

 十六時過ぎに早くも暮れてしまった空。
 コートを着込んだカップル達が足早に街を歩く。
 ちゃんと点いている店の明かりを見て、ちゃんと動いている電車を見て、こんな時に仕事をしたい奴もいるもんだと俺は少しだけ思った。
 きっと、恋人なんかいないんだろうな。
 俺にもいないけど。

「えー皆さんは明日からお休みですが」
 生徒指導という名目で教頭だか禿頭だかが全校生徒の前で喋っていたのを今になって思い出した。
「宿題だけをしろとは言いませんが、遊ぶにしても何をするにしても、有意義に過ごしてください」
 ここまできて、学校生活が休みに移行する間にある最後の難関がこの教頭だ。
「休みになると気が緩みがちですが不純な異性交際は禁止です。それからお金に関わること、および深夜の外出は親の同行が必要です」
 夏休みに入る時にも言われたから全部わかってるよ。そんなこと。
 そして何度聞かされたって誰も守りはしないよ。
 心の中でそう思っていた俺だけど、破ってみようと思うと意外と難しいんだな、これが。
 ゲーセンとかにつぎ込めるほどお金も持ってないし。
 不純も何も異性との交際が無いし。
 それを考えた時、またしてもふとどうでもいいことを思い出した。
『ごめんなさい』
 謝られた記憶だ。
 あれは、佐屋澪子。
 謝られる前に俺が言った言葉は、「好きです。付き合ってください」だ。
 この期に及んで、どうでもいいことを思い出したもんだ。
 まわりはカップル。俺は一人。今日という日の主役は、隣にいる人間を世界で一番大事だと言い切れる連中だ。
 俺みたいな奴がきっと今も電車を動かし、バスを動かし、電気を送り、サーバーを監視し、コンビニの店員をやっているのだ。
 俺には、没頭できる仕事もないけれど。
 ただ、こんな日をゲームで潰すのだけは嫌だった。
「佐野君?」
 ふと商店街の脇のケーキ屋から出てきたのは。
「佐屋さん!」
 半年前、俺に向けて謝ったあの女子生徒。今日は白いプルオーバーと黒のジーンズで、いつもの制服姿とは印象が違う。今の彼女のその服装を見て、今さら俺は冬を意識した。
 味気ない濃緑色のトレーナーと量販店の青いジーンズ。俺の服。佐屋さんはどう見るだろうか。
「ケーキ、買ってたの?」
 何を言ったらいいか解らなくて俺はとりあえず当たり障りのないことを言ってみた。
「食べる?」
 何を言ったらいいかますます解らなくなるような答えが返ってきた。

「日が暮れるね」
 よく晴れた日の終焉は鮮やかな紺と橙のグラデーション。紺の世界には星も輝いている。
「今日何してたの?」
 佐屋さんは俺を見ている。
「えっと、読んでなかった漫画読んで、テレビ見て。宿題やって」
 我ながら、何と魅力の無い男だろう。
 胸を張って言える趣味もない。
「え、宿題やったの?」
「……一応」
「マジメだねえ」
 そう言う佐屋さんのことを今の今まで俺はマジメな人だと思ってた。
「こんな日に勉強なんてやってられないよ」
 ピッタリ一人分空けてベンチに座った僕らを見る通行人の目は、さっきまで俺がまわりのカップルに向けていたのと同じような目。
「有意義に過ごすんでしょ? 宿題なんて意味がないじゃない」
「無意味ってことはないと思うけど」
「佐野君がそんなにマジメだとは思ってなかったな」
「いやマジメってワケじゃないけど」
「そうだよねえ。いつも授業中上の空だもんね。テスト中は寝てるし」
 出席番号順に座れば座席が前後になる俺と佐屋さん。席替えをしても、テストの時はやっぱり席が一緒になる。
「佐屋さんは今日はどうしたの?」
 と聞くと、佐屋さんは無言でケーキの箱を開けた。
 中には一切れのショートケーキと、更にビニール袋に包装してある割れたクッキー。
「聞いてよ」
「うん」
「彼氏に捨てられた」
「……はあ?」
「酷いんだよ! 今日はママと過ごすんだ≠チて。あんな子供だとは思わなかった! アイツはマザコンよ!」
「……小池?」
「名前も聞きたくない!」
 クッキーの袋をグッと掴んで佐屋さんは俺を睨んだ。
「わかったわかったから睨まないで」
 俺が悪いんじゃない。悪いのは小池だ。
「……で、そのクッキーは?」
「一緒に食べようと思って作ったのよ。約束してたのに今日になっていきなり何なのよ!」
「まあまあ……」
 それから荒っぽい動作で袋を開いて。
「食べてくれる?」
「いいの?」
「捨てたらかわいそうじゃない。クッキーも。作った私も」
「俺なら精一杯喜んで食べるよ」
「じゃああげる」
 差し出した俺の両手に粉々のクッキーがたくさん乗る。
 犬の散歩をしている爺さんと婆さんがこっちを見て笑っている。
 今や日は沈んだ。
 赤が消えて白くなった西の空に闇が迫る。
 俺達だけは公園の街灯が照らしてくれた。

「ぶはぉっ!」
 乾いたクッキーがむせて俺は慌てて水のみ場に駆ける。
 大切な大切なクッキーの破片が口から飛び出して砂になってしまったが佐屋さんは笑って見ていた。
 水を飲んで戻ると、ケーキを食べ終えた佐屋さんが。
「今夜、暇?」
「へ?」
「私、家に帰っても一人なんだよね」
「親とかは遊びに行っちゃったの?」
「……とっくにいないよ」
「……え」
 今時、授業参観に両親とも参加できないことは珍しいことではないから、そんなことを気にしたこともなかった。そういえば佐屋さんの親の顔って見たことがない。
 その前に好きだった人の母親がとんでもなく太くてケバくて、これが好きな人の将来の方向性だと考えて陰鬱な気持ちになったことがあるのは覚えている。でも今年の授業参観に佐屋さんの親は来ていなかった。
「だから今日は一人で過ごすのが凄く嫌で。アイツが一緒に過ごしてくれるって思ってたのに」
「……俺でよければ」
「うん」
 俺はポケットに手を突っ込んで。
 握ったままの福沢諭吉の顔を見て。
「夕食、食べようか」
 
「……こんな日にも仕事なんて、大変だよな」
 店を出た時、そんなことをつい言ってしまって。
「どっちが幸せなのか、解らないよ」
 俺の黒いダッフルコートを着て、中から白い服をのぞかせた佐屋さんはそう呟いた。
「どうせ叶いやしないのに」
 そう言って俺達は手を握った。
「俺なんかでいいの?」
「他に誰も掴まらなかったから」
 通りかかった店で佐屋さんは指をさす。
 すごく柔らかくて毛足の長い薄紅色のマフラーをご所望のようだ。
「買ってやるよ」
 こんなんで釣られてくれるんだから安いものだ。
 だが中にいたオバサンは。
「金なんか要らないよ。勝手に持っていきな」
 そう言って塩を撒くようにマフラーを投げ寄越した。
 佐屋さんは早速それを巻いて俺の隣を歩き始める。
 振り返ればさっきまでいた高層ビル。
 あの高級料理屋で、俺達はたぶん今夜最も若いカップルだっただろう。
 一切れ数千円の肉に驚愕したし、確かにおいしかったが、その辺のスーパーの肉と比べてもお金の味はしなかった。
 それでも俺は、そんな肉より何より、一番欲しいものを手に入れたのだからよしとする。
 ボタンを押せばゴツいデジタル腕時計が『23:39 57』なんて数字をみどりの光で浮かばせる。歩いている人々は一様に同じ方向を目指しているようだ。
「まだ俺達中学生だぞ?」
「今日なら怒る人いないよ」
 あんなバカ高い料理を食べて、こんな時間に出歩いて。しかも異性と。
 あの教頭が知ったら失禁するんじゃないかってくらいに俺達は悪い子だ。先日の期末試験であれほどの好成績を叩き出した女子生徒が。しかもよりによって俺みたいなバカと。
「……思ったより、悪くないかな。佐野君も」
 佐屋さんはそう言ってまた俺の手を握った。
「顔以外は」
「……………」
 苦笑いをするしかないけれど、でも確かにさっき食事をしていた時の佐屋さんはつまらなそうではなかった。
 学校の話、家での話、先生の悪口、他の生徒の噂話。教室で友達としていることと何ら変わらない会話を、親がボーナス入っても食べようと思わない値段の肉を囲んで。
 今も思う。俺は幸せなのだと。
「ここでいいよ。近づいたら首痛くなるよ」
 真っ暗な空だけどかすかに見える黒い影。遥か上空に向けてそびえたっている。
「こんなの初めてだな」
「私も初めて」
 広場には既に手を繋いだり口を繋いだりそれ以外のものを繋いでいるカップル達が大勢先着している。
 そんな中に混じって俺達は立ち止まった。
「立ち止まったら寒いな」
「そう?」
 差し出されたのは手ではなくてマフラーの先端。
「悪い顔が近づいてもいいか?」
「もうこの際、気にしない。真っ暗だし」
 冷たい地面に腰を下ろして俺達はただただその時を待った。
 時計はもう三分前。
「ありがとう佐屋さん」
「ん?」
「最高の思い出だよ」
「明日になれば忘れちゃうけどね」
「シンデレラみたいだな」
「シンデレラかもよ?」
 時計が残り二分となる時刻を示して、俺達は立ちあがった。
 騒然としていた広場も徐々に静まる。
 土で汚れた手を差し出したら佐屋さんは臆せずに握り返してきた。
「世界で一番愛する人と過ごす夜なんて、ロマンチックだよな」
「そうだねえ。私はフラれちゃったけど」
「……」
「でもね、世界で四番目くらいには佐野君のことも好きになれそう」
「そうか?」
「この期に及んで本音を言ってもしょうがないじゃない。嘘なんだから喜んでよ」
「…………」
 喜んでやろうじゃないか。
 嘘でも何でも今ここにいる人は俺が世界で一番好きな人なんだから。その人にとって、俺が世界で一番ではないのかもしれないけれど。
「いよいよだね」
 まわりは静まった。だが他人が息を飲む音が聞こえるほどに緊張が充満している。
「抱いてもいいよ」
「え」
「この期に及んで誰も怒りはしないよ。今日はそういう日でしょ?」
「佐屋さんが怒るじゃないか」
「私は怒らないよ。喜びもしないけど」
 何だか微妙なことを言われつつも、いいのならばと俺はその腰を抱いた。
 女の子の体は軟らかいなんて知った風な口をきくマセた男がいるけれど、実際は普段教室でプロレスゴッコをしている男子の体と大して変わらなかった。
 ただ、思っていたよりもずっと細かった。
「……ちょっと嬉しかった」
「……」
「人って、こんなに暖かかったんだ」
 ほんの僅かだけど佐屋さんが俺に体重を預けた。
「忘れてたな、こんな感覚。佐野君ありがとう」
「……」
「世界で一番好きだって、嘘つきたくなってきた」
「ついてよ」
「幸せだよ」
 呟き声がささやき声に変わって。
 腕時計の電子音が一回だけ鳴って。
「あっ……」
 タワーが一斉にライトアップされた。
 午前零時。
 美しく闇夜に浮かび上がる人工物に誰もが見とれて。
 目の前にいる相手に心を奪われて。体を預けて。
 俺と佐屋さんもその時抱き締めあっていた。
 俺はこの時ようやく気付いた。
 佐屋さんはべつに恋人の代わりが欲しかったわけではない。
 寂しかったわけでもない。
 誰からも必要とされない事。それがただ怖かったんだ。
 それが解っても嬉しくて。俺が喜んでいることで佐屋さんがほんの少しでも満たされるのなら僕はそれがとてつもなく嬉しくて。
 俺はもう少しだけ腕に力を込めた。
 俺の服の背中を掴む佐屋さんの手が震えて。
 押し付けられた顔にギュッと瞑った目と涙が見えて。
 佐屋さんの背後から世界が白くなった。何もかも。

 白い光に飲まれて消えた。

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