鬱屈

 
「五百人は死んでるな、こりゃあ」
 淡々とした声も雨に溶けて消えた。
 ミルク色のレインコートにフードまで被り、少女は返事も返さずに橋の欄干から身を乗り出して下を見ていた。
 木よりも高い橋。濡れた幾千枚もの葉に遮られて下の沢は見えない。
「クライム、五百一人目になりたいのか? させないぞ」
 問いかけたのは、フードの右横に止まる小鳥。水色と白のセキセイインコ。雨に濡れるのも気にせず、少女の肩に二本の足を生やしている。
「べつに」
 一言だけ喋った彼女はすぐに体を戻した。
 手についたコケと汚れを丁寧に払って彼女は再び歩き始める。
 短いブーツが砂利を踏みしめる音とレインコートの擦れる音、あとは雨粒の叩く音だけ。他に物が動く音はしない。
 谷に掛かったレンガ橋を渡り終えると、道は再び鬱蒼の森の中へ。
 彼女はやや俯き気味に足を進める。上り坂。
 砂利の上には二条の鉄の棒。背後から前方まで一寸も途切れることなく続いている。だが錆びきった鉄は雨に濡れても艶を出すことはない。
 かつては人間を運ぶ大きな車が往来したのだろうが、今となっては小柄な彼女の背丈にも干渉するまで低く枝が垂れている。
 再び無言になった。
 小柄な彼女の歩みはそれほど速くない。このミルク色のレインコートも彼女の体格にはかなり大きめだ。本来は大人が上着に使うであろうもので、スカートの丈よりも長く膝まで覆っている。袖もあと腕が三本は入るくらいに開いている。隙間から水が入り込むこともあるが、今さら気にならない。ブーツの上は既に少し濡れていた。
 欠けた枕木を避けて僅かに歩みが歪む。それでも、この足場の悪い砂利と線路と枕木の道に、彼女の足取りはよろけることもためらうこともなく。
「……」
 少しだけ息を吐いて、憎らしげに空を見上げた。
 フードに隠れた顔が露わになる。
 緑色の低い天井の上に、少しだけ割けて白い雲が見える。いつになったら晴れるかなんて、誰も教えてくれそうに無い。
 そんな彼女の顔を大粒の雫が殴りつける。
 首を左右に振るった彼女はまた無言で前を向いた。
「そこに建物があるぞ」
 小鳥が言った。
 道の脇にかすかに空いた平らな場所がある。
「ある、じゃなくて、あった、でしょ」
 彼女は一瞥しかくれないでまた前を向いた。
 四角い緑色のコンクリートに、穿たれた二つの穴。
 恐らくは旧家の台所の名残。
 こんなところに住む人がいたのか。
 いたとしても、今の彼女には何の関係も無い話。
「私は今入れる建物が欲しいの」
「そこのトンネルはどうだ」
「湿っぽいからイヤ」
 真っ黒い闇が目の前に迫っていたが、それでも彼女の足は休まない。
 土被りから染みた水がトンネルのレンガを通して染み、トンネルの中でも滴っている。彼女はフードを取らなかった。
「七十人は死んでるな、こりゃ。難工事だ」
 小鳥の言葉がトンネルに反響する。
 彼女は相槌すら返さない。
「わっ……と」
 初めて彼女がつまずいた。
 足元を見る。見ても何も見えないので懐中電灯で照らす。
「七十人の犠牲も百七十年経てばこんなもんだ」
 数メートルにわたってレンガが崩落していた。
 周囲の壁は黒ずんでいるが、砕けた破片は真新しい赤をしている。
「まるで血みたいだな」
 またしても彼女は無言。
 幾重にも積んであったのだろう、崩れたレンガの向こう側にも真っ赤なレンガの壁が見える。トンネル自体の崩壊は免れているようだ。
 それも、いつまでもつかの話だが。
「次来る時には崩れて通れないかもしれないな」
「シェルプは飛べばいいでしょう。まあもう来ないだろうけど」
 なおも彼女は足を止めない。
 ただ、懐中電灯で照らすようになった分だけ慎重になったとは言える。
 それもやがて出口。
「まだやんでないな」
「十分でやむわけないじゃない」
 トンネルを抜けた世界は最初は眩しく見えたが、、じきにまた薄暗くなった。
 相変わらず雨粒と雫がフードを殴り続けている。
 湿った緑の匂いが喉を満たす。微かに木々が白く見えた。
「そこに駅があるぞ」
「あった、でしょ」
「今度は千五百人だ」
「また死人の話?」
「一日に出入りしてた人の話」
 今となっては、線路の脇に積み上げられた土の塊でしかない。
 ここだけ明るいので彼女は空を見上げた。
 木々が途切れ、少しだけ空が見えた。
 相変わらずの灰色空。あと何年洗い続ければ地上の汚れは落ちるのだろう。
「もう疲れたよ」
 その盛り土の端に腰を下ろした。
 レインコートも膝の裏も土に汚れるだろうが、既に葉やコケがついたレインコートだから今から気にすることもあるまい。
「眠たいんだろ?」
「……そうね」
 砂利に植えられた白い印に彼女は目を落としていた。
 数字の4と2が書かれている。
 この鉄の道がどこから続いていたのかも、どこへ続くのかも解からない。ただ42と。
 その目印でさえひび割れてペンキが剥がれ、中から朽ちた木が湿った内部を晒している。
「眠ればいいじゃないか」
「イヤ」
「じゃあまたぶっ倒れるまで歩くか? この間みたいに」
「その方がいいよ。今度は助けを呼ばないでちょうだい」
 そうは言っても腰を上げない
 濡れた手で目蓋をこすった。
「何でこんな酷いことするんだろうね」
 レインコートの二つの袖からはみ出た白い指が絡む。
「放っておいたって、人の作ったものなんて勝手に消えていくのに」
「それは違うぞクライム」
 肩に立ったまま微動だにしない小鳥が言った。
「自然から沸いたヒトが作った物も、所詮は自然だ」
 彼女は初めてフードを取った。
「うるさい、小鳥」
 右肩の小鳥を左手で摘まんだ。積み木を掴む幼児のような容赦の無い掴み方だった。
「自然は人間を憎んでたんじゃないの?」
「離せ、離せよ!」
 彼女がそっと左手を開くと、小鳥は手首に飛び乗って毛づくろいを始めた。
 その傍らで言う。
「自然が自然を憎んだりするものか。栄えるのも滅ぶのも摂理でしかないはずだ」
 バサバサと羽ばたいた。彼女は思わずのけぞる。
 しかし小鳥が結局飛び立たなかった。単に少女を驚かせたかっただけなのだろう。
「それにな、クライム」
 所詮はセキセイインコの声だが、区切って喋ったために真面目さだけは辛うじて演出できていた。
「俺はおまえは好きだぞ。ヒトは嫌いだが」
 彼女は何の反応も示さなかった。
 ただフードを被りなおして。
「じゃあ私はシェルプ以外の全てに嫌われてるね」
「そうじゃあない。そこの石も木も線路もクライムを嫌いではない」
「好きでもないでしょ」
「それが自然と言うものだ」
 彼女が腰をあげると、小鳥も彼女の右肩に飛び移る。
「行こう」
「どこまで?」
「知らないよ。でも人が作った道の先には、必ず人の目指した場所があるから」
 

 
  数日後、誰もいない街の中で彼女は新聞を見つける。
 日付は数年前のもの。第一面の見出しには。
『ついに神罰が下された』
 それを読み上げると小鳥が言った。
「自然が自然に神罰など下すか! 自業自得ですらない」
 それを聞いた彼女は笑う。
「自業自得か」
 最初は手で口を押さえていた彼女が突然弾けた。
「その通りだね! 人間の世界は滅んだ! 私は帰ってきたよ。アハハハハ」
 笑い転げる彼女を、脇のガードレールに非難した小鳥が眺め続ける。
 排水溝の脇の茶色い水の中で、ミルク色のレインコートをコーヒー牛乳にしながら。
 ひとしきり笑い続けた後、泥まみれになった彼女はガードレールに手をついて起き上がった。
「みんなどこへ行ったのかなあ?」
 ようやく落ち着いた彼女の右肩へ鳥が飛び乗る。
「ま、シェルプが知ってるワケないか。所詮小鳥だもんね」
「何だと!?」
「ねえ見て、あの展望台、あんな高いところにある」
 山の上の小さな建物。
「視界は悪いだろうけどな」
「いいじゃない。私ね、あそこに上った時にシェルプが言う言葉がわかるよ」
「なんだ?」
 彼女はステップを踏みながら、その山を目指して歩き始めた。
「六十億人は死んだな、って」
 さっき汚れたレインコートも、雨に洗われてまた白さを取り戻し始めていた。
「そろそろいいでしょ? シェルプ」
「ん?」
「私も死なせてよ」
「ダメだ」
 彼女が右肩に左手を伸ばした。
 驚いて小鳥は飛び立ったが、左手は結局右肩まで届くことも無くもとの位置に戻る。
 小鳥を驚かせただけだった。
「……ダメだ。俺を狭いケージに閉じ込めて好き放題しやがった奴には当然の報いだ」
「ケチ」
「勝手な死は許さない。死ぬまで俺のそばにいろ」
「小鳥のクセに」
「それも当然の報いだ。そうだろう?」
 彼女は答えず、フードを目深に被りなおした。
「一生俺の宿り木になれ。俺はクライムが好きだ。大切にしてる。一匹じゃかわいそうだからもう一匹探すことを許してるんじゃないか」
「ハイハイありがとう」
 彼女は小鳥に頬を摺り寄せて笑った。
 もう二度と泣くこともないのだろう。

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