更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 16/21

 

←戻る


「そうだよね、私だって確かに怖いよ」
「……え?」
 宗佑の右足がさらに滑った時、宗佑の首の両側には理穂の腕があった。
 薄い袖の下から確かに理穂の体温を感じる。腕を回されているのだ。
「な、何だよ」
「私だってさ」
 その声は自分の耳よりさらに後ろから聞こえていた。
 宗佑の目に映っているのは、理穂の肩と背中だ。
「私だって、まだまだやりたいこといっぱいあるよ」
 驚いた宗佑はまたしても何も言えなくなる。
 あの洞窟の夜と同じ、密着して感じる理穂の息遣い。でも今日はこの前よりももっと近い。
「やりたいこと?」
「服もいろいろ買いたかったし。それから、例えば」
 さっきまで啓太の話をして、啓太のことの絡みがあるからこそ今日こうして宗佑と脱走をしたはずの理穂が、まさかこんな行動に出るとは。
 自分を包む理穂の体の中で宗佑は理穂の答えを待つ。
 待っていた言葉は。
「……おいしそう」
「へ?」
 理穂の体が離れ、改めて理穂の両腕が宗佑の肩を掴む。
「やっぱり最愛の人の味は知っておきたいし」
「ちょっと、どういう……」
「だってどうせ死ぬんでしょ?」
「死ぬか!」
 強く言い返しておいて、でもやっぱり死ぬかもしれないと少し思った宗佑。
 理穂は何も言わなかったが肯定もしなかった。
「……第一、俺が本当においしそうに見えるか?」
 右肩に乗っていた理穂の左手の甲が宗佑の頬に触れる。
「優しくしてあげるよ」
 そう言って絡みつく理穂の腕と。
「あ……」
 近づく口。
 首筋に当たる犬歯。
「ちょ……やめっ……」
 気がついた時には熱い感触。
「あんな奴に殺されるよりいいでしょ」
 もう理穂が何を言っているのか半分以上わかっていない。
「これが私の愛だから」
「やめろっ」
 宗佑は震える手で自分の首筋を撫でる。
「……あれ」
 理穂の口はもう離れていた。
 血なんか出ていない。
「舐めただけだよ」
「……」
 言う間に理穂の手は宗佑の上着のボタンを外していた。
「お、おい!」
 理穂は今さら気付いたように宗佑の顔を見上げる。
 もう上着のボタンは半分以上外れていて、そして理穂は。
「アイツらを振り切って一人で生きるのか、それとも結局ここで殺されるのか解らないけど」
 理穂が何を言っているのかまた解らなくなって、気がついたらボタンは全部外れていて。理穂の手が肩に乗っていて。はだけた襟つきのシャツの肩がその時には落とされていて。
「どっちにしても、私はこれから一生宗佑君を背負ってくから」
 理穂の瞳が赤く光る。振り返れば真っ赤な鋭い弧形の月がさっきよりも高くなっていた。
「……ああ」
 なぜかそんなことを言ってしまった時、理穂の手は宗佑のTシャツの肩を引っ張っていた。
「宗佑君の全部を受け継ぐよ。約束する」
 噛みつかれた。今度こそ間違いなく。
「こんな終わり方になると思ってなかったけど」
 理穂の口と違う場所から熱い感触が伝わる。
 理穂の声が少しだけ変わる。
「ずっと一緒だよ。一つになろう」
 いつの間にか地面に倒れこんでいた。
 理穂の体が覆いかぶさるように肩に突き刺さる。
 跳ねのける力も出なかった。
 なのになぜか、自分よりも細いその体を抱く力だけが出た。
 ようやく解ったのだ。
 理穂は宗佑に啓太を重ねているわけではないがそうやって使っている。
 宗佑を義理だけで助けようとしているわけでもないがそうやって使っている。
 理穂にとっての宗佑の価値がどんなものかは解らないが、少なくとも代替と偽善の感情の捌け口であったことは今はっきりした。
「理穂さん」
 これは全部理穂のわがままな好意と行為。だから、何で自分の口からそんな言葉が出てくるのかが宗佑には解らない。
 ただ理穂の涙が止まればと、そんなことを思ってしまった。
 震える歯から直に体内へ伝わる理穂の痛みと悲しみが、今この瞬間に少しでも癒えればと。


 

続きへ→

更地のノート > 物語 > ひとつむぎ