更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 18/21
「……おや」 中背の毛皮女は、まずは比較的穏やかな反応を見せた。 「その様子、もしや」 袖と口のまわりに付いた血のことを言っているのだろう。 一人で現れた理穂は、そこでふっと笑みをこぼした。 「……なるほど。愛する者を私達に殺されるくらいなら、ご自分の手で、というわけですね。手というよりも、口でと言うべきでしょうか」 今度は獣の方が笑みを浮かべる。 「それで、あなたはどうなさるおつもりですか?」 顔の部分の毛皮を取って、中の顔を見せる。 月を反射して赤く光る目。そして透き通るような歯がむき出しにされる。 「出てきたということは、逃げるのはおやめになって仲間になると。あなたにはもう、夫となるべき男がいないのですから。それとも実は既に、宗佑様の子を宿しておられるのですか?」 「夕べ見てたでしょう、洞窟で」 「結局何もしないで出てこられたではありませんか」 「……本当に全部見てたんですね。趣味悪いですよ、それ」 理穂は、もう笑みを引っ込めた。 「私は、もうこんな村が嫌」 ため息と共に吐き出す。 「だから外へ出たいんです。仲間になりたくて出てきたんじゃありません」 女は、一度空を見上げてから。 「出ても、あなたには既に逃げ場がありませんよ」 「……」 「だってあなたはもう、受け継いでしまったのですから。親の血肉を。愛する人の肉体を」 「……」 「外に出たところで何を断ち切れますか? 郷に入りては郷に従え。あなたの存在が通用する場所は、村の外にありはしないのです」 「……でも、私は外がいい」 女が腕に力を入れたのが動作でわかる。 一気に空気が固まる。 「なんだか力が沸いて来たんです」 その、昼間は巫女の姿をして現れる女の顔が。 理穂はその顔を睨んで離さない。 「……静電気がお母さんのくれたものなら、今みなぎってる力は宗佑君がくれたものなんでしょうね」 「ほら、やっぱりあなたはこの村から出られません」 女が動いた。すかさず理穂も足を踏み出す。 互いの手が触れた瞬間に起こる閃光。 眩んだ相手の襟首を掴み、足を相手の足首にかませて地面に引き倒す。 「くっ」 声を漏らすその女に、もう一度触れる。再び強い閃光が弾け、女の体がビクッと動いた。 「……」 恐れをなしたのか、すっかり大人しくなった中背の女は、それ以上は起き上がろうともせずに呆然と理穂を見つめていた。 「何だ今の光は」 背の高い奴が駆けつける。 「むっ。蓮華! 麗! こちらだ!」 その背の高い獣の呼びかけに従い、左右から草を掻き分ける音。懐中電灯が激しく揺れ、やがて人影が近づいて。 「蓮花姉様!」 駆け寄ってきた背の低い獣は、まずは理穂に飛びかかろうとするが。 「瀬見理穂に近寄るな」 背の高い、靖様とか言う奴の声でピタリと止まる。 しかし反対側からは、今もう一人の足音。 「止まれ、麗!」 だが遅い。理穂はそいつの方向を振り返り、その影が飛び出す前に右手を闇へ突き出した。 「うぐっ!」 触れただけで、その相手は茂みの中へとひっくりかえっていった。 「麗!」 もう一人の背の低い奴が飛び出して。 「やめろ蓮華!」 靖の声より早く、理穂が今と反対方向に手を突き出す。 「なっ!」 背の低い獣は驚きの声をあげた。理穂がここまで反応できると思っていなかったようだ。 両足でブレーキをかけたのだろうが、間に合わず。 「うっ」 理穂がその華奢な胴を掴んだ途端、強い閃光。跳ね上がった蓮華の体はそのまま地面に投げ出される。 「これは厄介な力だ。……が」 靖は至って冷静にそう呟いて。 理穂は自ら足を踏み出した。 「貴様とは重ねた数が違う!」 直立のまま理穂を迎え撃つ。 「私はどれほどの虚しき命の粕を食らったか!」 理穂の伸ばした手は空気を裂いた。靖はそこから消えていた。 「歴代のあらゆる無念をも継いだこの私に、きさまごとき小娘が!」 靖を仕留め損ねたことに気づき、今振り返った理穂に。 「かなうわけがない!」 獣の腕からの手刀を、理穂の手は捕まえた。反応が間に合ったのだ。 「あなた方とは違いますよ」 強い光が弾ける。が、理穂はまだ手を握ったまま。 「あなた方は肉しか食べなかった」 靖の体が震え出す。 「私は宗佑の気持ちを受け継いだ!」 理穂が手を離すと、靖は体に力を入れた形跡も無いまま地面に倒れ込んだ。 「……っつ」 静電気は当然ながら自分も痛い思いをする。 ベルトの金具に電気を逃がしてから暫く黙っていると、森の中は本当に静かだった。 もう四人とも動く気配は無い。しかし。 「……どうなさるおつもりですか?」 一番最初に戦意をなくした中背の女が声をかけてきた。 理穂は、顔の端で相手をやっと捉えられるような、極めて鋭い角度でその女を見返した。 「外で暮らしたこともないあなたが、どう生きていくつもりですか?」 「それでも、ここで彼の命を奪うよりは」 女は今さらになって体を起こし、理穂の方を見つめている。 「……彼? 食べたのではなかったのですか?」 女の声にそっと笑った理穂は、山の斜面を振り返り。 「出てきていいよ」 その声に応じて斜面を大量の枯れ葉が滑り落ち、そのあとで茂みから宗佑が転がり出た。 「……どういうわけですか?」 「結局イイところで暴れられちゃって。血を吸っただけです」 「血を吸っただけで、そんな力が?」 「たぶん、違いますよ」 理穂は宗佑の頬に手をやる。 もう静電気なんか出ない。 「彼のためにがんばった。それだけだと思います」 「……そうですか」 足を村の外に向けても、もうその女が追う気配は無い。足元に寝転んでいる蓮華を揺すっていた。 「……しかし、母を召した罪は消えませんよ。ふふふ」 理穂は構わずに一歩目を踏み出す。 「理穂さん。今の、どういう意味?」 「……」 返事を返さぬ理穂に見切りをつけ、宗佑も足を動かそうとした、その矢先。 「昭島宗佑」 今しがた地面に突っ伏したはずの、中性的な声で呼び止められた。 靖の声だ。 「逃げるなら宗孝に伝えろ。私は……早瀬靖子は今も恨んでいる、と」 |