更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 19/21
夜が明けたばかりの温泉街は静寂に包まれていて、街の中央を流れる川の水音だけがどこまでも鳴り響いていた。 照らす光は青く透き通っていて、朝の霞が微かに漂っている。森と急斜面の道なき道から比べれば、あまりにも穏やかな光景だった。 「無事に出れたんだな」 宗佑は、周囲に配慮して小声でそう言う。 川の音と理穂の声以外、本当に何も聞こえない早朝の街である。 「……理穂さん。未練、ある?」 「あるわけないじゃない」 「ありそうな顔してるから聞いたんだけど」 「未練なんてもうないって。あんな村にも、自分の家にも、啓太にも、エツさんや雅美さんにも。……私にはもう何も残ってない」 「何もないわけじゃないよな。俺が生きてるから」 「そうだね」 夜中あれほど耳障りだった二人の足音は、ここへ来たらどこかへ吸い込まれて殆ど気にならない。 犬の散歩をしている老人を見て、少しだけ瓜実を思い出したりもする。暗護佐が世話するとか言っていたから、鵜呑みにしていいかは別としても、心配することに意味が無い。 「それにしても、もう俺は君のこと信用できないよ。いつ取って食われるか解ったもんじゃない」 「まんざらでもなかったクセに」 と理穂は素知らぬ顔で歩いている。 「どういうつもりだったんだよ」 「べつに。正直、勝算はあったよ。宗佑君と一つになれば、あんな奴らに負けないって」 「……勝手だよ」 「二人そろって死ぬよりいいでしょ」 「勝手だ」 少しだけお腹が空いたが、こんな時間に開いている店もない。 「でもね。宗佑君があの時本気で拒否した時、思ったよ」 「思った? 何を?」 「……生きたいって思ってるんだって」 「当たり前だ!」 理穂は笑って続ける。 「だから私はこの人を守りたいって。死なせちゃいけないって」 それから振り返って。 「そう思ったら、何だか凄く元気出た。負けないって気がして。ここで死んじゃダメだって」 「……ありがとう」 宗佑が返すと、理穂は満面の笑みで応えた。 「……でも、せっかく出られても、私は」 「何だよ、未練なんかないって言ったじゃないか」 「そうじゃない。……なんでもない」 「何だそれ」 「……いや、こんなことなら、結婚式の時の着物を持って来れば高く売れたのにな、って」 「そんなことか」 「…………うん」 太陽の熱を感じて、寒かった夜のことも少しだけ思い出して。 「……宗佑君」 「ん?」 「生き残れて良かった?」 「当たり前だろ」 「そっか」 理穂は足を止めた。 誰の家かも解らない住宅の並ぶ前で、先を行く宗佑の肩を見て。 「私はまだ解らないや」 「……え?」 宗佑も足を止めて、理穂のところまで引き返す。 「ねえ、宗佑君」 理穂は、あるいはそれを待っていたのかもしれない。 「私が今までに言ったこと、全部信じてる?」 |