更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 21/21
「……高熊窪って言えばさ」 「何?」 理穂の返事はさっきよりも少し明るい。元気が出てきた、のだろうか。 宗佑は続ける。 「高熊窪に俺が行ったから俺達出逢ったけど。気づいたら、俺は何にもしてないよな。今まで」 「そうだね」 宗佑があの村に関わって五日になる。 思い返せば、何もかも結局はまわりに流されていただけ。 それはもちろん、あの村が何から何まで常識とかけ離れていたから何も出来なかったのだが。 「でも、今、一個だけ思いついたことがある」 豆腐屋がシャッターを開けた。中から放出される蒸気と蛍光灯の光。ずっと昔から営業しているのだろう、作業場の前の排水溝の鉄が錆びて崩れかかっている。 「理穂さん、とりあえず俺の家に来なよ」 看板に従って細い路地の坂を下る。軒が頭上にまで張り出して、丸い石を敷き詰めた路面に暗がりを作っている。 「とりあえず寝泊りする場所はあるし、金なら親が貸すよ、たぶん。あとは、適当に仕事を探すなりすれば、ひとまずは」 「……ありがとう。でも」 駅に着くと、電車は既に入線していた。 運賃表を見て目が飛び出しそうになる。 東京まで、片道一万円超。理穂の分を含めれば、二万数千円。 「……高いけど、まあ、帰るためには仕方ないな」 改札の駅員に言って、四枚もの切符を出してもらう。 「行こう、とりあえず東京の実家帰って、話はそれからだ」 その切符を二枚ずつ分けて、停車している電車に乗り込んだ。 汚れた窓から見える街並み。時刻は午前五時半過ぎ。車の光らせるテールランプが妙に眩しい。 「肩、大丈夫?」 理穂に聞かれて、改めて肩の痛みを思い出す。 上着を脱げば、Tシャツには今も穴が開いていることだろう。そしてそこから染み出た血液は、いまや上に着ている白いシャツまで茶色くしている。 「大したこと無いよ」 そう言って笑ってみたが、正直、痛いことは痛い。 「まあ、これのおかげで今こうして無事に山を下りれたんだし……」 ドアが閉まって、電車が動き出す。 「おっと」 揺られた理穂が宗佑の膝にまでもたれかかってきたので、慌てて受け止めると。 「……寝てる?」 そっと背もたれまで戻すが、もう首が据わっていない。 流れ出した景色は、初めて見るものに間違いないのに、なぜか酷く懐かしく感じた。 「私達は一緒にいられないんだよ」 理穂は確かにそう言った。だが、見据えても理穂は起きていなかった。 |