更地のノート > 物語 > リコリス > その1
あれから七度目の週末は、俺以外の全ての人にとっては平和なひと時のようだった。
俺だって八週間以上前までの週末は、平穏に一週間を乗り切ったことへの祝杯とご馳走を三人で囲んでたんだ。次の週へ向けての休養日に入る前の、軽い儀式のようなもの。どこの家でもやっている当たり前の光景を、俺達は毎週共有していた。けれどそれは八週間前で終わり、七週間前から一人の週末が始まった。
共に祝い、一週間を語り合ったあの人はもういない。
今週もまた、いない人を思う冷たい酒を流し込むだけ。
今朝も戸が叩かれる。
「お入り、リナー。今日は早いな」
ドアの半分もないような娘が、暗い俺の部屋に入ってくる。
「パンもらいにきたよ〜」
敬語さえ知らない自然体の言葉づかいに、この間だけ俺は微笑むことができた。
「……ねえ、ラファールおにいちゃ〜ん」
入ってきた娘、リナーが上目遣いに俺を見る。
「ん? どうした?」
「あたしのおねえちゃんはどこにいったの?」
何度訊かれても苦しまされる。同じ質問をリナーは何度でも繰り返す。まるで俺の心を抉るかのように。
「きのうのよるもね、かえってこなかったの。まえはいつもね、どようびはおにいちゃんとリナーとおねえちゃんと、さんにんでごはんたべてたのにね」
「………………」
説明は今までに何度もしようとした。
しかしまだ幼いこの子に「死」という概念は理解できないだろうと、結局はいつも思いとどまる。
「……ミルは、今遠くにいるんだよ」
結局のところ、俺にはこんな子供騙しの回答しかできない。
「とおくってどこ? おにいちゃんはどうしていっしょにいかなかったの?」
この子が騙されはしないということは重ね重ね解っている。しかし死というものについてミルを題材にして説明するなど、俺にはできはしない。そう。俺もまた、説明ができないのだから理解していないのと同じことなのだ。
「ねえ、おねえちゃんいつかえってくるの?」
「来週くらいじゃないかな」
それはリナーへの詭弁だったのか。
いや、単に俺自身の願望だろう。
「ほら、持っていきな」
両手いっぱいのパンを持たせて、俺はリナーを見送る。
祖父母の家で暮らしているリナーは、毎朝俺のところにパンを取りに来る。ミルがよく食べていた俺の家のパンが、最近は祖父母もお気に入りなのだという。
これは、八週間前まではリナーでなくてミルが行っていた習慣だ。毎朝この玄関でミルは俺が前日の夜に練習に焼いたパンを安く買って、その場で二人で今日一日の平穏を誓い、そしてお互いの志気と健康を確認した。
俺は、今日が平日であればこの後実家の工房へ趣き、オヤジの苛立ちの捌け口となって働く。今日は休日だから何もしない。
家は三ヶ月前に出された。というより出た。
今となっては思い出したくもない、けれど当時は尊かった、たった一つの目的の為に。
『二人で週末を過ごしたいね。リナーも入れて三人でもいいかも』
その言葉も今は空しく、三人で過ごす週末なんてものはもうないけれど、結論的にはこの小さなボロ小屋を買ったのは正解だった。
俺が一人で泣き続けるのにうってつけだからだ。
条件反射として、俺の目には涙が浮かぶ。
俺はもう記憶の中のミルの顔さえ鮮明に見ることが出来ない。ミルのことを思うだけで涙が流れ、例え今目の前にミルが現れたとしても、俺の目はその輪郭さえも捉えることができないだろう。
「リナー!」
街角に消えつつあるミルの妹を俺は呼び止める。意味もなく。
「なにー?」
あどけない笑顔は、俺のように涙にふやける必要などない。
俺はでっち上げの言葉を投げかける。
「今夜はうちでごはんを食べないか」
聞こえたのか聞こえていないのか、リナーは大きく手を振った。
そして再び前を向いて歩き出す。
ミルによく似ている。笑顔の作り方も、手の振り方も、顔立ちも何もかも、リナーはミルと全く同じものを持っている。
きっと十年後には、リナーはミルの生き写しのようになるんだろう。
でも、その時俺はもうニ十五歳で、リナーはまだ十五歳で、ミルも十五歳で、こんな想像は余計に虚しさを増すばかり。
リナーにミルを重ねてみても、くだらないことだった。
空は曇っていて、枯葉を含んだ粗い風が街を駆け抜けていた。
時計台の脇にある大きな風車が、ギチギチと壊れそうな音を街中に響かせている。
『おねえちゃんはどこにいるの?』
リナーの言葉が心の中で残響している。
どうしてミルはいなくなった?
考えても解らないことは、いくら考えても解らない。
「元気ないね、ラファ」
以前はよく一緒に出かけた友人のフェンと偶然すれ違う。
「お茶でも飲まない?」
「いい」
「君がそう言うのは解ってた。だから、僕がおごるよ。これでどうだ?」
「いい。要らない。放っておいてくれ」
「……そうか。残念だ」
残念そうな顔を見せるフェン。俺には、こいつがどうしてこんな平気な顔をしていられるのかが解らなくて残念だった。
「……僕は待ってるからね」
その言葉を無視して黙って行こうとした俺に、背中からフェンが浴びせかける。
「ミルを忘れろとは言わない。だけど、僕は君がせめてみんなとお茶に付き合ってくれるような日が来るのを、ずっと待ってるから。早く立ち直ってくれ」
フェンはそれだけ言って、そのまま駆け出してどこかへ消えて行った。
今の俺には、喫茶店に行く勇気がない。
砂糖の加減を聞いてくれる人がいないから。
「……」
気づけば俺は歩いていなかった。フェンに話しかけられたまま、立ち尽くしていたことにすら気づかなかった。
『おねえちゃんはどこにいるの?』
その言葉が再び心の中で飛び交う。これを訊ねるのはリナーか、それとも俺自身か。