更地のノート > 物語 > リコリス > その2
横の建物からは、かなり大人数の歌声が聞こえてきた。休日を祝い聖歌を奉っているのか、今度の祭りでの出し物の練習か。
聖歌にしても祭りにしても、何がそんなにありがたいのか。つい最近まで知っていたことなのに、今の俺には解らない。
祭られるほどの偉い存在があるのならばそいつに訊いてみたい。「ミルはどこに行ったのか」と。どうせ偉大な神様とやらも答えてはくれまい。
俺は建物の隙間から垣間見える、十字架の丘を眺める。
重く暗い雲の下に見えるあの丘の無数の十字架の中には、『ミラージュ・ヘルブレンド』と刻まれた真新しい十字架が確かに存在する。ヘルブレンドの苗字を持つ、既に黒ずんだ両親の十字架の間に立っている。それは俺もこの目で見た。今日から週が変わり、八週間前となったあの木曜日に。それは、九週間前にはなかった十字架だ。
その『ミラージュ・ヘルブレンド』の十字架の下に埋まっているのは、ミルに他ならない。そう、ミルはあの十字架の真下にいる。でもそれは違う。そこにあるのは灰になったミルの残骸であり、ミルがいるわけではない。ミルはどこに行ってしまったのか。
雨は最初からいきなり強く降り出した。
小石でも降っているのかと思うほど雨は強く俺を叩いた。
反応に遅れた俺は、道路のド真ん中で呆然と立ち尽くしてしまった。
「入りな、入りな」
気のいいことで有名な角の家の爺さんが、逃げ惑う人々を迎えるべく玄関の戸を開けて待っている。俺の周りを歩いていた人々が次々にそこへ駆け込む。
「ほら、兄ちゃんも」
爺さんが手招きしている。
でも俺の頭の中は真っ黒だった。
「いいんです。今すぐ帰らなきゃならないんで」
「そうかい、じゃ雨除け布だけでも」
「要りません、構わないでください」
俺は自宅へ向けて駆け出した。
あの日もこんな大雨だった。
昼間だというのに空は暗く、明かりを灯している家が多い。
そう、あの日もこんな真っ暗な昼だった。
今日から八週間前となったあの週の木曜日の朝、ミルはしきりに、河原に見たこともないきれいな花が咲いていたと言っていた。もっとたくさん咲いたら摘んで飾ってみようねと、繰り返し繰り返し俺の脳に刻み付けた。
そして、あの日の昼はこうして急な雨が降ってきた。
俺はあの日もいつもと同じように、退屈なパン屋の店番をしていた。
もっとも、あんな嵐の中、パンなんか買いに来る奴は一人もいなかった。
ただ一人、ミルを除いて。
『こんにちは、ラファ』
ミルは俺にそう言った。
『この嵐だと、川岸も水浸しになっちゃうかなあ』
ミルはまだ川に咲いた花とやらを気にしていた。
いや、もう既に気にしていたというべきなのかも知れない。
『こんな天気じゃ明日の朝は来れないかも知れないから、明日の朝ごはんの分だけでも買っていくね。どれがラファの焼いたパン?』
とミルは店内を見回しながら言う。
でも暫くするとミルは残念そうに首を横に振る。
『今日は焼かせてもらえなかったの?』
もはやどれが俺の焼いたパンだか、ミルは見抜ける眼力を持っていたんだ。
『ああ。焼かせてくれなかった。今日はオヤジの機嫌が悪かった』
『そう。じゃあそこの大きなパンもらうね』
『あげないよ。ちゃんとお金払ってくれよ』
『はいはい』
オヤジの焼いたパンを袋に詰めて渡すと、すぐにミルは出口の方へ歩いた。
それから、今朝のリナーと全く同じ仕草で振り返って、手を振る。
『また来るよ』
その言葉が嘘になるとは、俺は夢にも思わなかった。当たり前のように実行される物だと、敢えて意識することはなくても無意識下で俺は切に願っていた。
俺はボロ屋に戻って、窓から止まない空を見上げる。
空はますます暗くなり、今が正午だというのに明かりがなくては物が見えないほどになっている。
時折風が吹いて雨が吹き込み、庇の下のガラスを激しく叩く。外に見えていたレンガの家の輪郭は滲み、揺れて、赤い色が灰色の空と溶け合う。俺は、そんな何もおもしろくない様子をただ眺めている。
もしもこれが八週間以上前の日曜日だったら、きっとミルはリナーを連れて遊びに来ていたのだろう。雨の降る日曜は退屈だと、いつも俺にこぼしていた。言葉通り、日曜に雨が降れば必ずミルはここに来た。そんな時、俺はやはり外に出られないから家で暇を持て余していて、ミルが来るのを待っているのだった。
「こんにちは〜」
ミルと声色の似ている、けれども全然違う声がドアの向こうに微かに聞こえた。
「ああ、お入り」
カチャっと音がして、小さな客が入ってきた。
「どうした? お爺さんとかお婆さんは?」
「ふたりともおひるねしちゃった。リナーはたいくつだからきたの」
「ああ、そう」
リナーの家の爺さん婆さんは昼寝が趣味だった。
だからミルもよく俺のところに来てたんだ。リナーを連れて。
「おにいちゃん、なにしてあそぶ?」
「ん? そうだな……トランプでもするか」
「トランプ?」
リナーが嬉しそうな顔をする。
無邪気で、かわいらしい。何も知らないと、ここまで美しい表情を作れるものなのか。
「じゃあ、ババぬきやろうよ」
「ババ抜きかあ……」
二人でババ抜きは事実上不可能に近い。でも、リナーにはまだそれは解らないだろう。リナーが解っているのは、今まで三人でトランプをやる時は必ず最初にババ抜きをしたということだけだから。
いつまでも雨は降り続いた。
地響きのような音がするのは、川を巨大な岩が転がっているからだ。だいたいこんな地響きがした後の川は風景が変わってしまっていて、前はなかった大きな岩が鎮座していたりする。大方明日には橋が全部なくなっていて、当面の間は復興に追われることになるだろう。
だからこそ、あの夜もミルは河原の花を心配して……。
「リナー、外暗いけど、平気か?」
無理矢理口を動かして、俺は自分の考えを断ち切った。
「うーん……」
リナーは困ったフリをするが、こいつの頭の中はどうせ何も考えてやいまい。
「一人で帰れないだろ?」
日暮れが異様に早いのはもちろん天気のせいだが、実際この雲の上も今頃は夕暮れだろう。窓から見えるのはもはや周囲の家の明かりと、薄青色に暗く光る空だけ。他の物は全て黒にしか見えない。
「かえれないかもしれない」
「だろうな。送ってってやるよ」
「やだー。まだあそぶもん」
「でももう夕方だぞ。お爺ちゃんとお婆ちゃんが心配してるんじゃないかな」
「んー。でもおにいちゃんさー、こんやリナーとおにいちゃんでごはんたべようっていったよ?」
「って言ったってこんな天気だし、今日は早く帰った方がいいと思うよ。夕飯の買い出しも出来なかったし」
「……わかったよ」
「よ〜しいい子だ。来週の土曜日の夜こそはうちへおいで」
俺は物置から雨除け布を出して、リナーに頭から被らせる。俺は大人用に雨除け布を縫製した上着を着る。
「うわ、なんだこりゃ」
ドアを開けたら、敷石のすぐ下まで水に浸っていた。どうやら道が川になっているらしい。
「こりゃ酷いな」
「あたしながされちゃうよう」
「いや平気だろうけど……でも大変だよな。仕方ない」
俺はリナーに背を向けてしゃがみこむ。
「おんぶしてやるよ」
「わーい。おにいちゃんありがとう」
玄関から二段の階段を下りると、路地は俺の膝くらいまで水に使っていた。それが一斉に川の方へと流れて向かっている。
「すっげー雨……」
街ですれ違う人々は一様に困り顔をしている。半地下の部屋がある家では、ドアの隙間に土を積む作業を大慌てで終えたようだ。今朝まではなかった謎の山が多数出現している。だが残念ながら、その土が流れ出して道を茶色く染めていて、水没も時間の問題だ。
……水はどこへ行くんだろう。俺はふと、そう思った。