更地のノート > 物語 > リコリス > その3

 
 

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 リナーを送り届けて、挨拶もそこそこに俺はヘルブレンド家を後にした。
 そして家とは反対の方向へと向かう。
 石畳の道に溜まっていた水は全て川へと向かって流れており、一部の道は完全に川になりきっていた。
 俺はその道より一段高い別の道を行き、川べりへと辿り着く。
 見慣れた河原はなかった。土手のすぐ下はもう濁流だった。
 道から来ている水は全て川へと注がれ、案の定既に橋は流されている。
 ミルの言っていた花はどこに咲いていたんだろう。
 まわりを見回しても、それらしい花なんかなかった。いつもは草の生えているこの法面でさえ、今は泥だらけになって街からの水を流している。うっかりすると俺も足を取られそうだ。一度足を取られれば二度と岸に上がっては来れないだろう。
 あの日、ミルはここに来た。事故が起きたのは、八週間前の木曜日の夜のことだと推測されている。あの大雨の中、行き先も告げずにミルは家を抜け出た。ミルがいないことに祖父母が気づいたのは午後十時頃だったと証言されている。その時に、ミルはここにいたのだ。あるいは既に流されていたのだ。
 どうしてミルがここに来たのか、理由は想像できる。例のきれいな花しかありえない。野次馬なんかする性格ではないし、川には他に縁がないからだ。
 では、ミルはここからどこへ行ったんだろう。
 結局、花が好きなミルはまだ帰って来ていない。大好きなはずの花を添えられても何も言わないミルはもはやミルではない。帰って来たのは単なる抜け殻でしかないのだ。ではミルの人格は、こんな濁流の中で体から抜け出し、どこへ流れて行ったんだろう。
 ミルの行き先は、俺には解らない。
 だが一つだけ、正解に近そうな道筋がある。
 それは、ミルはこの辺から旅立ったということだ。
 ミルの人格はこの場所から水に溶けて、どこかへ流れ出してしまったのだ。そして残ったものだけが、翌朝下流の街から引き上げられて届けられて埋葬されているのだ。
『おねえちゃんはどこにいったの? おにいちゃんはどうしていっしょにいかなかったの?』
 リナーの言葉が浮かぶ。
 俺はミルを追えるのか。
 この川の流れ着く先に、溶け出したミルがいるのか。
 行けば、会えるのだろうか。同じ場所に着けるのだろうか。
 体を捨ててどこかに行ったミルと同じように、俺も体を捨てて新しいどこかへ行ければ、そこでミルに逢うことが出来るのではないか。
 俺は川面を見つめた。
 既に光は殆どなく、僅かに手前で泡立っている白色が見える程度。
 暫く眺めていると、吸い込まれそうな感覚に襲われる。
 この川の先へ。
「おにいちゃん? ……なにしてるの?」
 俺は後ろを振り返った。
 腰まで水に浸かった小さな女の子がそこにいる。この声は紛れもなくリナーのもの。
「どうした!? 何でこんなところにいる!?」
「……あ、きれいなおはな」
 リナーは俺の横を通り越し、斜面で水に打たれながら辛うじて生えていた、何かの植物を掬い上げた。
 水から引き上げられて、暗闇でも少し見える。薄赤い小さな花。
「何っていうんだっけな。おねえちゃんがおしえてくれた」
「……へえ、ちゃんと名前が付いてるんだ」
 ふと、花の名前をミルに教えられる光景を思い出した。
 そして、その姉のミルと瓜二つの、リナーが今はそこにいる。
 この子は別の人格だ。
 生き写しのように似ていてもミルではない。
 それは解っているんだけど、この子の姿を見た時に少し懐かしい感じがしたのは何だったのだろう。
「ほら、そんなところ行ったら危ないぞ」
 身を投げようとしていた俺自身のことを棚に上げて、俺はリナーの体を持ち上げた。
「花は持ったな」
「うん」
「じゃ、帰るぞ」
 再びリナーを背負って、俺は川に背を向けた。

「おねえちゃんは、かわにながされたの?」
「え……!?」
 背中からいきなり核心を突くようなことを言われて、俺は戸惑う。それは俺の知っていたことだが、知らなかったことだ。
「えっと、その……」
「あたしわかってる。おねえちゃん、おはかにいるんだよね」
「……知ってたのか?」
 まさか、俺は今までこんな子供にまで気を使われていたということか? リナーはミルが死んだことをきちんと理解していて、その上で俺とリナーは、ミルの居場所について嘘を共有してたとでもいうのか?
「……そうだ。リナーの言う通りだ。ミルはもう帰ってこない」
「うん。でもね、おねえちゃんはきっとおにいちゃんのことをそばでみてるよ」
「……そうか?」
「うん。だって、おうちでいつもリナーにはなしてたもん。ラファおにいちゃんがだいすきだって。ずっといっしょにいたいって。ききあきちゃうくらい。だからこれからもきっと」
 俺はこの時、恥ずかしさにも増して虚しさを覚えた。
 大好き≠セなんていう、人を最大限に喜ばせるための言葉が、ここまで痛く心に噛みついてくるなんて。
 どうして死んでしまったんだ。そんな思いだけが棘を残す。
 流れたのは涙だ。切られたのは心だ。なのに体のどこかを切り裂かれたみたいに痛かった。息が詰まった。呼吸が止まるかと思うほど痛くて、それでも足元に立ってこちらを見るリナーの顔を見やった。
 リナーは俺に気付いてか気付かずか、歳相応の無邪気な笑顔。
「でもね、リナーもおにいちゃんのことだいすきだよ」
「そうか?」
「うん、トランプしてあそんでくれるから」
「ハハハ、そうかい」
 俺は川を振り返る。
 俺はミルを追うことは出来なかった。
 でも、恐らくミルが俺と同じくらいに大切にしていたであろう人の存在に気付いた。
 父も母もいない。先の見えている祖父母と二人で暮らすこの子をこの先もずっと大好きでいてあげることができるのは、いまや俺一人。
 この子をミルの生き写しのように見てしまう自分が悔しかった。でも、ミルが大切にしていたこの子を同じように大切にしてあげることしか俺にはもうできないのだ。
 ミルの生き写しのようなこの子が泣き喚く様なんか絶対に見たくない。俺に気を使って騙されたフリをするくらい強い子だけど、俺までいなくなったらその強さまでなくなってしまうだろう。
 ミルが俺に追ってきて欲しいのは欲しくないかなんて知らない。知らないけど、俺の気持ちは決まってしまった。

 あれから九度目の土曜日にリナーと川岸を歩いていた。
 川岸に見たことのない赤い花が一輪だけ咲いていた。リナーはそれを見て、これまで話していた夕飯の話やヘルブレンド家の祖父母の話をやめて、何も言わなくなってしまった。
 俺も川岸の花を見続けた。
 どこか上流の知らないところから流されてきた種が根付いたのだろうか。
 すっかり穏やかになって澄んだ流れが俺達の前を測りきれないほど流れて。
「……おねえちゃんのすきそうなおはなだね」
 リナーがそう言い出した。
「お供えするか?」
「うん」
 俺はリナーの手を引いた。
 さよならって、言わなくちゃいけない。
 
 

終わり

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