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SSC(1/2)
「どこに行けばいいんだろう」
慎二は何度となくその言葉を口にしている。
だからみすずは、いつも決まって。
「どこへでも好きなように」
同じ答えしか返さない。
理由は明白だ。
もはや地名なんてものは意味を無くしてしまっているからだ。
「……それか、あの世か。そっちの方がいいかもね」
これもみすずのいつもの答え。
「まあ、いずれはそうなるんだろうけど」
そう言っては、自分の腰に提げられた短い剣のような棒に手を宛がう。
慎二は知っている。みすずには、今や本気で死ぬつもりがないことを。
だがみすずは、死に代わる救いを求めている。それがなければ、いざとなればすぐにでも命を絶とうとするだろう。本当に絶てるかどうかは別として。
――俺だって、人のことは言えないな。
慎二だって、何かの拍子に腰の日本刀で首を掻っ切るかも知れない。
そうでなくとも、いつまで生きられるか解らないのに。
「今夜はここにするか」
地下鉄の入り口なのかも知れない。階段の入り口についていた屋根は完全に壊れていたが、瓦礫を跳ね除けて階段を降りると、そこは何も手のつけられていない真っ暗な空間だった。
「気味悪くない?」
「落ち着けると思う。角で寝てれば、警戒する方向も一つでいいし」
みすずは無言で慎二の後ろに従った。納得したらしい。
懐中電灯で中を照らす。排水機の止まった地下はところどころに水没しているところもあるが、せいぜい腰までで、乾いているところは乾いていた。
「慎二、いっそこの地下道で死のうか」
「バカ言うな」
一言で切り捨てられたので、みすずは笑顔で応えた。
「断わられちゃ仕方ない。じゃあごはん食べよう」
いつもの通り、拾い物の野菜を適当に炒めたり煮たりしたものと、缶詰。今夜は駅の売店跡からかっぱらってきたジュースも付いた。
「……ねえ、慎二」
「何?」
「向こうの方に死体が」
「……食事時に言うことじゃないな」
「気付いちゃったんだから仕方ないじゃない」
ほんの一瞬だけ合唱してやって、すぐに夕飯を再開する。
暗闇の向こうにぼんやり浮かぶのは、ミイラ化した遺体。腐食した肉が服に染みついていて、服の元の状態すら解らないが、恐らくはスーツを着た人だろう。
「あたしもあの日にさっさと死んじゃってれば、こんな思いはしなくて済んだのに」
みすずが呟いた言葉は、その誰かの死体への恨み言にしか聞こえなかった。
「あー眠れない」
みすずは突然呟いた。
そして立ち上がって、ふらふらと階段の方へ歩いていく。足音は何度も行き交い、やがて闇の中へと吸い込まれていく。
「またか……」
慎二は呆れて、殆どため息と同化した言葉を吐き出した。
みすずが寝ている間に突然ああいうことを言い出すのは、殆ど毎晩のことである。
二人はいつも、夜を日没から夜明けまで半分に分けて、前半分は慎二が見張ってみすずが眠り、後ろ半分は慎二が寝てみすずが見張ることにしている。だからみすずはここで寝ておかないと、このあと半分の夜を起きて過ごすことが辛くなってしまう。にも関わらず、である。
「ったく」
そうやって毒づいてみても、慎二だって何も変わらない。たまにどうしても眠れない夜がある。
体重を壁に預けて、暗くて殆ど見えない天上を見る。
地下鉄の駅だ。毎日たくさんの人が出入りしていた。それが今や、誰も使っていない。この通路でいったい何人死んだのか。考えただけで震えそうになる。
さっきの死体からは距離を置いて広げた一つの布団。
明日はどこに敷くかも解らないこの布団で、あと何晩寝られるんだろう。
慎二のまわりからみすず以外の人間が完全にいなくなって、もう何ヶ月経ったかわからない。その前から既に人間なんて殆どいないようなものだったし、みすずさえいれば全くの孤独というわけでもない。だから、今は現状をそう特殊なものだとは思わなくなっている。親とか友達が死んだという事実と付き合うのだってもう慣れた。涙なんて滅多に出ない。それは慣れたというよりも、涙が枯れたというべきかも知れないが。
もう数え切れないくらいの日数を生きて来たのは、半分は奇跡みたいなものだ。そしてもう半分は、みすずのおかげ。
だが、この先あとどれくらい生きていけるのかは解らない。みすずは、たぶん大丈夫だと思う。が、慎二はどうなるだろう。
「慎二、今何時?」
足音もなくみすずが戻ってきた。
「十時半」
「そっか。交替まではまだまだだね」
そう言って、みすずは一つしか敷いてない布団に座る。
階段の外には、これまでずっと引き摺ってきたリヤカーが停めてある。あれに、この布団やら、着るものやら、蓄えの効く食材やら、必要な物を詰め込んである。
「水少し貰うよ」
「お好きに」
夕飯に使ったミネラルウォーターを少しだけ口に含んでから、みすずは白い物を口へと運んだ。
「また睡眠薬かよ」
「これがないと眠れなくて」
飲み下す音まではっきりと聞こえた。
「……まったく」
薬を飲むそのしぐさが、皮肉なくらい平和なように思えた。
ここは、魔物に全て壊され尽くした世界である。
一年前の秋、何の前触れもなく突如として現れたその異形の天敵のために、なす術もなく全ては滅んでしまった。都市部の大きな建物はそのまま残っているが、近郊都市の小さな建物は軒並み潰され、人という人は食われるか殺されるかして、今は誰もいない。
もちろんそれは、慎二とみすずの見た限りの状況であって、実際地球がどうなっているのかは知らない。どこかではまだ人が戦っているのではないかとの期待も心の内側では抱き続けてはいる。しかし現状では、既に自分達以外に誰一人としてここにはいないのである。
いかに強力な軍事兵器を持っていようとも、あまりに圧倒的な数と機動力を前に、軍隊なんか一番最初に滅んでしまった。民間人は、対抗手段を最初から持ち合わせていない。そんな中でここまで生き残っている二人のことは、もはや奇跡と表現してしまうのが一番手っ取り早い。
「……ダメかな。最近効きが悪くなってきてる」
「飲み過ぎなんだよ」
みすずは答える代わりに、何かにいらついたように睡眠薬の入った箱を枕元に置いた。
こんな荒れた世界でどうして睡眠薬など手に入るかと言えば、魔物が現れたのがたったの一年前のことだからだ。魔物は人間には固執する代わりに他のことはどうでも良いらしく、廃墟になった建物や瓦礫の下からは、人間の使っていたものがたくさん発掘できる。薬だって一軒の瓦礫を漁れば必ず出てくるし、缶詰や飲み物、果ては畑で自生してしまった野菜なんかも手に入る。たった二人で生きていくことは、案外簡単なことだった。魔物に会わない限りは。
「じゃあ、今度こそ寝ます」
「おう」
みすずが布団に入る。布の擦れる音がする。
この布団はこの前デパートから見つけた。
慎二が今着ているジャンパーもそれだ。
一方みすずは、いつまで経っても変わらず中学校の制服を着ている。最近寒くなってきているが、わざわざ学生用のコートなどを好んで着ているのだ。洗うためにしばしば別の服を着ていることもあるのだが、基本は制服だ。登校途中に例の魔物に襲われたことに、少なからずこだわりがあるらしい。それで、慎二も何となく、制服を着ていることが多い。
自分達が中学生であることをアピールしたい気持ちも少しある。
でも本当は、みんな死んでしまったあの日から、一歩も動きたくないだけなのかも知れない。
「……ああ、道理で寝苦しいと思った」
突然ガバッと起き上がったみすずは、ブラウスの上に着ていた紺色のベストを脱いで畳んで、続いて座ったまま器用にスカートを脱いだ。
慎二は憮然として目を反らす。そのスカートの下に短パンを穿いていることは知っているが、それでもどうしても目が勝手に反れてしまう。
「……慎二」
「ん?」
身軽になったみすずは、再び布団の中へ。
「もし魔物が来たら、すぐ教えて」
「ああ」
「絶対に一人で戦ったらダメだよ。必ずあたしを起こして」
「解ってるって。毎晩同じこと聞いてるからな」
それこそが、二人がこれまで生きてこれた秘訣だ。
「バカ」
みすずは暗闇の中でそっと呟く。
明かり代わりにつけていた懐中電灯はもう電池がなくなったらしい。だいぶ明かりが弱々しくなっている。屋外で寝るならこんなものは大抵要らないのだが、地下では完全に真っ暗だから消すことができない。
「もう十二時過ぎてるって。だいたい見張りが居睡りしてどうすんの」
みすずはそうブツブツ言いながらも、慎二を起こさないように静かに布団から這い出て、枕元に置いてあったベストとスカートを身に着ける。そらから、首を暗闇の方向へ向けて。
「………………」
暫く暗闇を睨みつけた後、おもむろに枕元に置いてあった白い箱を手に取る。
「……使い時かな」
呟いて、暫く箱を眺める。
それから、壁に寄りかかって居睡りしている少年を見る。
「いや、まだ早い」
箱を床に置く。
何度こうして躊躇っただろう。
勢いに任せて手首を切ったことも何度かある。喉を少し切ったことだってある。それでも、みすずは死ななかった。
死ねなかった、というのが正しいかも知れない。
みすずはもう一度、慎二の寝顔を見た。
「まだ早いよね」