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SSC(2/2)

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「ん……」
 気がついたら布団をかぶって壁に寄りかかっていた。
「お?」
 足元に置いておいた、バンドの切れた腕時計を見る。
 午前三時。
 とうに交替の時間は過ぎている。
 見張りを放棄して居睡りしていた慎二にこの布団を被せる奴は、もう慎二の知る限りは一人しかありえない。
「おい、みすず?」
 その名前を呼んでみたが、闇に溶けた呼び声に返事はなかった。
「……」
 慎二は布団を跳ね除けて起き上がり、手元に置いてあった日本刀を鞘ごと握る。
 冗談ではない、本物の日本刀だ。刃渡りも慎二の身長の半分ほどもある。
 使うことがないように祈りながら、僅かに光の差し込んでいる階段へと向かう。
 

「うぐっ」
 鋭い悲鳴が聞こえたのは、慎二が地下鉄の入り口から地上に顔を出した瞬間だった。
「みすず!?」
 状況がわからないまま、慎二は咄嗟に日本刀を構える。その足元に今、みすずの胴体が転がり込んでくる。
「……なんだ、連れがいたのか」
 その声に慎二は正面を見据える。
 暗闇に人影。いや、人間にしては異様に横幅が太く猫背な影。荒い息がこの距離でも聞こえ、慎二とみすずを飲み込んでいく。
「……魔物か」
「当たり」
 こちらも息を切らしながらひっくり返っているみすずは、比較的元気にそう返した。
 腰に差していた短剣のようなものがない。手元を離れて、丸腰で戦っていたらしい。こんなケガもするわけだ。
「人間が二匹。しかもご丁寧に剣なんか持ってやがる」
 まるで声を低くするエフェクトでもかけたように、不気味な唸りを伴う魔物の声。
「そうだぜバケモノ。この剣でおまえを斬り殺してやる」
 慎二は無意味に強がってみる。いつものクセだ。こうでもしなければ、せめて相手の注意を強気な言葉でひきつけておかなければ、震えて折れそうな足がすぐにでも見破られてしまう。幸いにも、口だけはどんな状況でも達者に動いてくれる。
「人間ごときが。食い殺してやる!」
 魔物は魔物で、獣以下の脳味噌のクセに言葉を喋るものだから、言っていることが支離滅裂で、大抵は「死ね」「食ってやる」という言葉で締めくくられる。最初から頭の中にはそれしかないのだ。
「慎二、下がって」
 足元から手を伸ばしてきたみすずは、慎二の持つ日本刀に手を宛がうと、
「うわっ」
 有無を言わさず奪い取った。慎二は今更びっくりして、その後になってから抗議しようと身を乗り出すが。
「安心しなよ慎二、あたしが死ぬまでは守ってあげるから。あんたが死ぬのはその後」
 みすずは横目で不敵な笑顔を作った。
「ば、ばか、そういう問題じゃ」
 慎二が再び抗議すると。
「――最も、あたしは死なないけどね」
 それだけ言って、首を正面に戻す。
「……なんだ貴様。本当に人間か?」
 魔物が怪訝そうな顔をする。
「腹をぶち抜いたんだぞ? なぜ立てる? なぜ笑える? 気に食わない! 気に食わなくても食ってやる!」
 魔物は右手を繰り出す。
 パンチではない。その指の先にあるのは、五本の爪、その一本一本がナイフのように薄く鋭い、凶悪な爪だ。
「くっ」
 みすずはその爪の攻撃が出てから、慌てて身を横に反らせる。
 傍目でもみすずの不利が判る。増して慎二の目からは、いつものみすずの動作より格段に遅くなっていることだって判る。
 既に弱っているのだ、みすずは。
「ちっ。かすっただけか」
「……っ」
 みすずの表情が歪んでいる。先の傷もそうだし、今頬に新しく出来た傷も痛むのだろう。
 慎二はそんなみすずを見据える。
 息を切らしながら刀を構えるみすずの体は、小さくふらつき始めている。
 胴体のいたるところから血が噴き出しているその体に、あと何分も立って歩く力はないだろう。
「おい、待てバケモノ」
 再び虚勢を張って慎二が声を出す。
「俺のことを忘れてるんじゃねーのか?」
 忘れていたことは間違いない。そして、本当は忘れていてもらいたいのも事実。
 だが慎二は、敢えてその手に足元の石を握る。
「かかって来いよ」
 言いながら、その小石を魔物目がけて力任せに投げつける。
 ……が、聞こえたのは小石が地面に落ちる音。魔物に当たった様子など全くない。
「……人間、俺をナメてるのか?」
「………」
 慎二は少し目を反らした。
 みすずが、魔物の横から非難の視線を慎二にぶつけている。
――どうして余計なことを。
 それを見ると、慎二は自然に笑ってしまった。
 みすずはますます機嫌の悪そうな顔をする。
「男め。そんなに死にたいなら、貴様から先に死ね!」
 魔物がついに動いた。
 慎二が石を投げても命中しなかった距離から、僅か瞬き一つの間に慎二の間合にまで駆け寄ってくる。瞬間移動の類いではない。地面が揺れたのも、その足音も、きちんと体は感じとっている。魔物はまさにその足でここまで駆け寄って来たのだ。魔法や奇術の類いなら、まだよかった。だが現実問題として、魔物とはそれほどの力を持っているのだ。
「食らいやがれ!」
 魔物がそのスピードで腕を振り下ろしてくる。
「バカ、効かねえよそんなの!」
 軽口の割りに腰の引けた動作で飛び退って、そして慎二は盛大な尻餅をついた。
 魔物がにやける。腕は二本ある。もう一方の腕が今まさに振り下ろされようとしている。
――浅はかだった。
 一回避けただけでどうこうなるわけでもないのに、後先考えず力任せに逃げたからこうなったのだ。
「死ねえ!」
 気迫の篭った掛け声一声、魔物の爪が風を切る音を立てる。
 慎二は自分の手のまわりを見る。
 あれに耐えうる物は何一つない。
「あっ……」
 半分泣きそうな顔で、魔物を見返す。奴の顔は既に満面の笑み。もはや奴が慎二を見る目は、子供がステーキを目の前にした時のものと大した違いがない。

 慎二は真っ赤になった。着ている物は赤く染まり、皮膚にも血液がまとわりついて。
 だが、それは慎二のものではなかった。
「う……ぐっ、あぁっ……」
 泣き声のようにも聞こえる呻き声を立てるのは、尻餅をついた慎二のつま先の上に倒れこんだみすずなのだ。
 慎二の爪先を小刻みに揺らしているのは苦痛に耐えて震える体。大きな周期で揺らしているのは喘ぎそのもの。その爪先を圧迫しているのは、今までもこうして何度となく慎二の身代わりとなってきた少女。
「……何がしたいんだ。俺にはさっぱり解らん」
 魔物はそう吐き捨てた。
「まあ、こうやって一ヶ所に集まってくれる習性は、ほんの少し役に立つがな。食べる時に面倒がない」
 そういって、魔物は爪に付着した返り血を嘗める。
 よほどおいしかったらしい。その表情にみるみる喜びが染み出していく。
「さて。じゃあそろそろ肉をいただこうか」
 と、爪をみすずにあてがおうとした時。
「何だ、気付いてないの」
 みすずがそう言った。地面に押し付けた顔から、篭った声で。
「なっ、ひいっ」
 魔物は最初そんな情けない声を出した。そしてすぐに爪をひっこめ、地面に尻餅をついて足をかばう。
 みすずの日本刀が、その右足首を貫いていたのだ。
「うぐっ……あっ」
 魔物の苦痛の声をバックミュージックに、みすずは日本刀を杖にして立ち上がる。
「くっ、おのれ!」
 痛みに意識を翻弄されていた魔物が、ようやく我に返り。
「人間の小娘が!」
 さっきのように斬るのではなく、今度は突きを狙った軌道だった。後ろに引いた腕を、みすず目がけて真っ直ぐに伸ばしてくる。
「もらった!」
 みすずもその時、日本刀を大きく振り被った。
「うっ」
 慎二は目を反らす。しかしその動作は遅れていたため、結局全て見えていた。
 みすずは、目前に迫った魔物の爪を一切避けようとしなかった。
 影響がなかったわけでもない。当たった瞬間にみすずの体は大きく揺らいだし、すぐに背中から爪が生えたので、それ以降の動きは格段に鈍っていた。
 だが、日本刀を振り下ろすことはやめなかった。
 魔物の首に音を立ててもぐりこんだ刀身は、首を半分ほど裂いたところで止まった。一方みすずの動きも、その後すぐに止まる。両腕をガクンと垂らし、左肩のすぐ下を突き抜けた爪を静かに外す。
「く、人間ごときに……!」
 魔物はまだ爪を動かそうとする。
「くそっ」
 慎二は吐き捨てて、刀を握る頼りないみすずの後ろからその日本刀に手を添える。
「慎二……?」
 疑問を口にしたみすずの声は虚ろ。
 慎二は日本刀を引く。
 魔物はそのまま崩れた。何も言わなかった。
「……約束は、守ったよ」
 みすずは至近距離で慎二を振り返って、そのまま膝を折った。
「お、おい、大丈夫かよ!」
「ダメかも」
 みすずはその慎二の足に寄りかかり、そのまま眠ってしまった。
「こいつは、いつもよりヤバいかも」
 慎二は困惑した表情で、とりあえず日本刀を鞘に収める。
 

「……どうして戦おうとなんかしたのさ」
 暗闇の中でみすずはそう言う。
 狭い地下道には血の臭いが充満し、ただでさえ湿って暗い空間をより陰湿なものにしている。
 この臭いを嗅ぐと思い出す。魔物が襲ってきたあの日のことを。屋外なのに、どこへ行っても血の臭いの漂ってきた時のことを。
「血だらけの奴の言うことじゃないな、それは」
 殆ど消えかかっている懐中電灯に浮かぶのは、鈍く明かりを跳ね返す人影。
 光を跳ね返しているのは、まだ乾いていない血液だ。
「だって、あたしのことは……」
「でも痛いだろ?」
 そう言って慎二は、みすずのわき腹に指を這わせる。
「えっち」
 冗談めかせてそう言ったみすずは、直後に体をビクンと跳ねさせた。慎二の指が傷口に触れたからだ。
「痛いんだろうが」
「……痛いかどうかなんて関係ないよ。どうして戦おうとなんかしたのさ。あたしのことなんかどうだっていいじゃない。どうせ死なないんだから、痛かろうとなんだろうと、それで助かるのに」
「死ぬ死なないの問題じゃない、俺はおまえが苦しむのを見たくないだけだ」
「ダメだよ。それじゃ慎二が死んじゃうかも知れない」
「だから、そうじゃなくて」
「そうなんだよ、あたしにとっては。あんたに下手に手出されて死なれるくらいだったら、いっそ今すぐあたしを殺して欲しいくらい」
 慎二はため息をつく。
 いつだってそうだ。
 これ以外では特に喧嘩をしたこともないのに、二人はいつだってこれで揉めるのだ。
「あたしは嫌だよ、慎二が死んじゃうのなんて」
 ようやくみすずは、ずっと反らしていた顔を慎二の方へ向ける。
 まだ全然起き上がれない。喘ぎながら、それでようやく視線を慎二へ定めるのである。
「……それは、俺を好きとでも言ってるのか」
「そういうことじゃなくて」
 みすずは笑った。が、その中で少しだけ視線を泳がせたのが、こんな頼りない懐中電灯の明かりの元でも不思議と慎二には解った。
「あたしはこんな体だから、きっと慎二の方が先に死んじゃうから」
「……」
 それはきっとそうなのだ。
 みすずのような特異体質などではない慎二は、もちろん普通の人間である。普通の人間は今のみすずのようなケガを負ったら、今頃死んでいることだろう。そもそも普通の人間は普通にあの日に魔物に殺され尽くして、今はとっくにいない。慎二もその人達と条件は全く同じなのだ。今生きている方がよっぽど奇怪なことなのだ。
「慎二が死んじゃったら、あたしは一人だよ? 一人で寂しく生きてきたくなんかない。でも自殺しても死ねないだろうし。きっと慎二が死んだら、それで絶望して、でもいつまでも死ねないまま、魔物と会って大怪我して、そうやっていつまでも一人で生きてくんだよ。………発狂しそう」
 みすずはため息をつく。
「慎二が戦って、慎二が先に死んじゃったら、ホントにそうなっちゃうんだろうね。そんなの嫌だよ」
 慎二の顔にみすずが手を伸ばしてくる。
 慎二はその手を見はしたが、相手にはしない。
「……みすず、俺だって、もしおまえが先に死んじゃったら嫌だぞ」
「でもあんたは自殺だって何だってできるじゃない」
「嫌なものは嫌だって言ってんだよ」
「嫌がることないよ。あたしがもし先に殺されるんなら、その時きっとあたしは幸せに思ってると思うよ。慎二はまだ生きてるんだって、そう思って死ねるから。そうしたら、あんたはそんなに苦しまなくていいはず」
「それは俺だって同じだよ。今から約束してやってもいい。俺が先に死んだって、絶対おまえを恨んだりしないって。おまえ、それで随分悩んでたからな。でも俺はおまえを悩ませないで死ぬよ」
 みすずはずっと、自分の親が目の前で殺されたことを思い出しては苦しんでいた。ただ死んだだけでも悲しいというのに、自分が生き残ってしまったことにさえ罪悪感を感じていたのだ。
「だけど、慎二」
「まあ待てって」
 慎二は、慎二の体を這い回っているみすずの指を摘まんだ。
「要するに、お互いに思ってることは一致してるんだろ?」
「……そうだけど」
「そうなんだろ?」
 みすずは摘ままれた指を慌てて引っ込める。どうやら無意識のうちに慎二の体を這わせていたらしい。
「だったら、死ぬ時は一緒でいいじゃないか」
 みすずは引っ込めていた手を途中で止めた。
「どっちが先とか言うからおかしくなるんだよ。俺はもしおまえが死んだら、その場で一緒に死んでやるよ」
「……けど」
「いいじゃないか。不公平がなくて」
「……」
 みすずは暫く黙っていた。
 やがて、唐突で手を地面を突く。
「あ、まだ起き上がるなって」
「平気」
 すっかり真っ赤になってしまったブラウスが淡い光に浮かぶ。
「慎二は、それで本当にいいと思う?」
「おまえこそ」
「……」
「……」
 沈黙がお互いの間を行き交って。
「……人間って、どうしてこんなにバカな生き物なんだろうね」
 みすずがそっと呟いた。
「もっと生に執着できれば、こんなことで悩んだりしないだろうに」
「そうだな。終いに自分が先に死にたいだなんて。バカだよホント」
「ねえ慎二、こんなこと思うのって、どうして?」
「どうしてって?」
「何であたしは慎二に生きていて欲しいと思うの? 何で慎二が死んだら嫌だと思うの?」
「……それは」
「それはあたしが慎二を好きだから?」
 起き上がっていた体が少し揺らぐ。
「慎二があたしに死んで欲しくないなんて言うのは、慎二があたしを好きだから?」
「……」
 本当は傷に障って仕方がないくせに、みすずはまだ姿勢を崩さない。
「……約束しようよ。どっちかが死んだとしても、ずっと離れないって」
「そうだな。そうしよう」
 みすずが小指を突き出す。
「指きりゲンマン」
 指を切ると、みすずはさっさと布団へダイブした。
「慎二の手って意外に大きいんだね」
「こんなことするの初めてだな、考えてみたら」
 慎二も床に体を投げ出す。
「世界がこんなことになる前に出会えてたら、きっと幸せだったのかな」
「……もともと同じ学校なのに全然縁がなかったけどな。まあ、世界がこんなことになって、いいことなんて何もないけど、おまえに出会えたことだけは幸せなんじゃないかな。……なんてね」
「………」
 返事がない。
 慎二が横を向くと、みすずは目を閉じていた。ピクリとも動かない。
「……この野郎」
 そしてみすずの頬の傷を見る。血の流れた跡があるのに、皮膚には傷一つない。完全に治ってしまったのだ。
「……」
 確かに奇怪な体質ではある。みすずのことは。
 だがそれに守られて来たのは事実。みすずがこんな大怪我をしたことは今までに何度だってあるが、慎二はロクに怪我したこともない。
 たかだか布団を取られて寒い思いをすることくらいで、何の文句も言えはしないだろう。
「いい夢見ろよ」
 そう言って、慎二はみすずがいつも着ているコートを重ね着して、ただひたすら縮こまるだけだ。
「慎二が布団入ってくれたら見れるかも」
 突然声が帰って来たので慎二は慌てる。
「バ、バカなこと言うなよ」
「真に受けないでよバカ」
「……」
 慎二は再び縮こまって、日本刀を握り締める。
「生きような、絶対」
「可能な限りは」
「魔物に脅かされない場所を探すんだろ?」
 ずっと昔に言っていた、建前だけの目標を言ってみた。
「そんなところ、天国くらいしか考えられないね」
 夢もクソもない答えが返って来た。
「でもまあ、約束しちゃったし。最大限死なないように努力するよ。少しでも長く慎二といたいから」
「……同感だ」
 いつも顔をしかめて眠るみすずの寝顔が、今夜はやけに優しい。


 

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