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水鈴(1/3)
傘をさす人はいなかった。
水色に暮れた夕刻。カエルの輪唱。時折行く人々が濡れた砂利を踏みしめる湿った音が近づいては遠ざかる。
電柱から下がる白熱灯はまだ点いていない。
「汀(みぎわ)ちゃん」
佇む彼女に声をかけたのは霧の向こうから歩いてきた女性。閉じた朱の傘をさげて草履の足音もなく歩み寄る。大人と呼ぶには少し幼い。
「あれ、いつ帰って来たの?」
汀と呼ばれた彼女は笑顔で振り返った。
「いつって、今よ。……それより何してたの?」
「私? 電気を見てたの」
「電気? これ?」
「そう。昼間は消えていて夜になると点くじゃない。いったい誰が点けるのかなって」
「ああ、そういうこと」
汀の無地の着物の肩を叩き。
「相変わらずくだらないことやってるわね」
「知りたいんだからしょうがないじゃない」
叩かれた肩を撫でながら汀はかかとの向きを村のほうへと向ける。
「お帰り、初子(ういこ)ちゃん」
後ろ向きに差し出された手が、まだそこに立っていた初子の手を引いた。
「さあ行こう」
「あれ、でもまだ電気点いてないわよ?」
「そんなの明日確かめればいいよ」
「……そう」
二つの草履と二つの草鞋が薄暮の道を歩く。
「でもどうしたの? 急に帰ってくるなんて」
「今日はお祭りがあるんでしょう?」
「……そうだっけ」
「村祭りよ、忘れちゃったの?」
「うーん……? そういえば昔この時期にお祭りがあったような、なかったような」
汀は首を傾げる。
うないの髪が右に揺れ、かすかに鈴の音がした。
「……汀ちゃん、今の」
「え?」
「今、鈴の音がしたんだけど」
「ああ……」
首を戻して汀は自分の胸元に手をやった。
前襟の間から出されたのは、首から下げられた銀色の鈴。水色の糸で括られていた。汀は紐の途中を持ってその鈴を初子の顔の前で鳴らしてみせる。
「これがどうかした?」
「それって」
「ずっと前にお祭りで……あっ」
と言って汀は勝手に笑い出す。
「そうか、そのお祭りか!」
鈴から手を離す。
鈴は胸元に下がり、汀の一歩ごとに鳴った。
「まだ持ってたのね」
「宝物だもの。肌身離さず持ってる」
「そう……私の鈴は親に捨てられてしまったわ」
「あらら」
「大切な思い出なのに。ごめんね」
汀は今一度、初子の手を握るのと反対の手で鈴を鳴らして見せる。
「でも初子ちゃん」
「何?」
「鈴がなくても、思い出はなくならないよ」
握った初子の手を自らの胸元に引き寄せる。
初子の指が銀色の鈴に触れ、かすかに鳴った。
「ずっと待ってたんだから。初子ちゃんが帰って来るのを」
「……」
「どうしたの?」
「汀ちゃんだけよ、待っていてくれるのは」
「どうして?」
「私の家はもうここじゃないもの。お父さんもお母さんも喜んではくれない」
初子が足を止めた。
汀もつられて立ち止まる。
鈴の音が鳴り止む。
「……私、よくわかんないけど」
汀は初子の手を強く握りなおす。
「よくわかんないんだけど、結婚ってそんなに大変なものなの?」
もう片方の手で初子の頬に触れて。
「……あ」
頬を触れられたことにびっくりしたのか、初子は急に顔を上げて作り笑いをした。
汀は続けて言う。
「結婚しなくていいって言われた私が羨ましい?」
「ご、ごめん汀ちゃん、そんなつもりで言ったんじゃ……」
初子は慌てて手を振り解いたが、作り笑顔もすぐに消してしまった。
「……いいよ。私はこの村の子じゃないんだし」
初子が振りほどいた手を汀はしつこく追いかけて握る。
「初子ちゃん。私は結婚ってのがどんなものか知らないけど、和尚さんがいて初子ちゃんがたまに帰ってきてくれれば私はそれでいいや」
「……」
初子はもう手を振りほどかなかった。
「行こう」
「……うん」
「おうちに帰れないなら、私とお寺に泊まろうよ。和尚さんもきっといいって言ってくれるから」
「……うん」
二つの草履と二つの草鞋の足音と一つの鈴の音が水色の霧の中に消えて行く。