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水鈴(2/3)
 

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 村の下の方ではいつもの夕暮れそのものであったが、奥のほうへ進むとお神楽が聞こえ始めた。
「本当にお祭りなんだ」
「汀ちゃん本当に知らなかったの?」
「うん、全然」
 緩い坂を登るにつれ次第に音が近くなり、神社の参道に入るとそこは夜店の雑踏になっていた。
「懐かしいね汀ちゃん」
「え? うん」
 今度は初子の方から汀の手を引き雑踏へと入り込んでいく。
 暮れ切らない空の微かな明るさを忘れるほどに彩られた無数の提灯。濡れた石にも明かりが瞬き、蒸した空気を風が時折さらっていってまだ少し寒い季節を思う。
「ねえアレ食べよう」
 何の変哲もないべっこうあめ屋を指差せば。
「汀ちゃんか」
 ねじり鉢巻をした農家のおじさんが笑顔で一本手に取った。
「お金は要らないよ」
「え?」
「今日はお誕生日なんだから」
 と言って強引に渡された。
「いいんですか?」
「いいんだよ」
 その横から初子が。
「私にも一本……」
 というと。
「おまえはお金取るからな。誕生日じゃないから」
 と言って笑った。
「みんな優しいなあ」
 汀は笑う。
 そして一言だけ。
「誕生日じゃないんだけどね」
 と付け加えた。
「この村に仲間入りした日、よね?」
「拾われた日だよ」
 汀はまだ笑っているが、初子の顔は少し曇る。
 それもすぐに振り払って。
「ねえ、汀ちゃん」
「ん?」
「こっちへ」
 今度は初子が手を引く。
 参道から反れて。
「着替えよう」
「へ?」
「浴衣を持ってきたの」
「……浴衣?」
「そう。ずっと昔のお祭りの時に、浴衣が着たいって言ってたよね?」
 初子はずっと背負っていた薄紅色の風呂敷に手を突っ込んで。
 隙間から紫色の布の端を見せた。
「ほら、私はいい家に嫁いだから。私の分って言って新しい浴衣を作ってもらったの。丈もそんなに変わらないしね」
 汀は目を丸くしたがそれも一瞬のことで、すぐにまた目を細めて首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって……」
 初子は困った顔をする。
「だって汀ちゃん、浴衣嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、でも着たいなんて思ったのはずっと昔のことで」
「ずっと小さい頃の浴衣しかないのよね」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃない」
 脇道はやがて高い木の塀に囲まれた小道になる。
 踏みしめた砂利がぬかるんだ砂の上を転がり足を揺すぶる。風通しが悪く湿り気を帯びた空気が体にまとわりつく。初子は足早に汀の前を歩き、右へ左へ小路を分け入り、やがて石塔の並ぶ寺の前に出た。
「和尚さん」
 玄関から声をかけると仄かな明かりの向こうから人影が現れる。
「おかえり汀。それと……おお、初子か。帰ってきたのか」
 小太りの体に美しく輝く頭皮。
 黒い袈裟に身を包んだ老人。
「汀ちゃんに浴衣を持って来ました」
「それはそれは。早速お願いするか。汀、おまえは一人で着られないのだから初子に着付けをやってもらいなさい」
「行こう汀ちゃん」
 初子は勝手を知っているのかすぐに上がって暗い廊下を歩き始めた。汀も後をついていく。
「初子、お茶請けがあるから後で居間に寄っていきなさい」
「ありがとうございます」
 背中に坊主の言葉を受けつつ初子が向かったのは本堂の裏の小部屋。
 汀の部屋だ。
「あれ、行灯は? 行灯が無い」
 これまでよどみなく進んできた初子が初めて戸惑う。
「捨てちゃったよ、今はこれ」
 汀の手が虚空に伸びる。
 部屋の中空に垂れ下がる電球が灯った。
「電気引いたんだ」
「去年やっとね」
 板の間の中央にゴザと、部屋の奥には格子の入った小窓。隅には追いやって畳まれた布団と小さな棚。他に家具も無い六畳ほどの部屋だ。
「でも他は全然変わらないわね」
 そう言いながら初子は風呂敷を置いて広げた。
 あやめの花を思わせる紫と白の着物が一着。
「え、これって……」
「昔汀ちゃんが着てたのと同じような柄のを作ってもらったの」
「……作ってもらったの?」
「ええ。さっそく着てみて」
 戸を閉めて汀を座らせる。
 汀は言われるままに座って今着ているものの帯を解く。

「私達、大人になったね……」
「……へ?」
 帯を結んでもらって、短い髪を梳いてもらいながら。
 汀の肩越しに初子が話しかける。
「今汀ちゃんを見てたらそう思った」
「……そう?」
 汀は髪を初子に任せ、自分は浴衣の襟を何度も引っ張って着物を楽しんでいる。
「ねえ汀ちゃん」
「なに?」
「本当に結婚しなくて良かったの?」
「なんで?」
 汀は振り返る。
「こっち向いちゃ梳かせないでしょ」
 初子は両手で汀の頬を挟んで前を向かせる。
 汀はしぶしぶと壁に向かって答える。
「うーん、結婚しちゃいけないとは言われたけど、結婚がいいものなのか悪いものなのかわかんなかったから、どっちでもいいやって」
 暇なのか汀は今度は裾を引っ張って何度も直した。
「初子ちゃん、結婚してから大変そうだし」
「そう見える?」
「うん」
「そんなことないんだけど。汀ちゃんこっち向いて」
 振り返った汀の短い髪の毛に赤い珠のついたかんざしを差す。
「うん、似合ってる」
「そう? ありがとう」
 汀は照れながら何度も自分の髪を撫でた。
「……べつにさ」
 体ごと向き直り、汀は初子の櫛を奪い取った。
 そのまま初子の背中に回りこみ勝手に髪を梳かし始める。
 うないの汀と違い、腰まで伸ばした真っ黒の長い髪だ。櫛を通した感触が解らないほど細くてしなやかな黒髪。
「結婚なんてどっちだっていいって思ってたもの」
 汀は丁寧にその髪の上から下まで櫛を入れる。梳かすというより撫でるといった触り方だ。
「楽しいもん。和尚さんとか初子ちゃんとかと一緒にいた方がずっといいよ。初子ちゃんのこと大好き」
 まだ半分も終わらないうちに初子が振り返った。
「汀ちゃん」
 振り向きざまに汀の両手を取り。
「ずっと好き?」
「へ?」
「これからもずっと友達でいてくれる?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「何があっても好き?」
「……うん、好きだよ」
「どこへ行っても?」
「そうだよ。そうでしょう?」
 初子が強く手を引いた。
 汀は体勢の均衡を崩してそのまま初子の体に飛び込む。
「わっ」
 体勢が落ち着いた時には、初子の両手が汀の胴をしっかりと保持していた。
 初子の腕の中で、汀は特に驚きもせず。
「何言ってるの初子ちゃん。私達ずっと友達でしょ? お嫁に行く時に約束したじゃない」
 と言って伸ばした汀の手が初子の背中を叩く。
「そうだよね」
「そうでしょう?」
「うん、そうだよね」
 暫く初子の背中を叩いていた汀の手が、今度は初子の髪を撫でる。
「初子ちゃん、何か嫌なことでもあるの?」
「ううん、べつにないよ……」
「本当に?」
「うん、本当に」
 初子が顔を少しだけ遠ざけて。
 間近で汀の顔を見据えて。
「私もずっと汀ちゃんと一緒にいたかったよ」
 ほお擦りをした。
「あの頃に帰りたいなあ」
「初子ちゃん……」
 汀の手が再び初子の背中に。
「♪この沢 激つ瀬 渡り難きに 氷輪 飛び石 相照らす」
 汀の胴の奥深くから吐き出される息が音になって。
 汀の腕の中の初子の口がそれに合わせてもう一つの音を出し、混ざり合って一つの歌になる。
「汀ちゃん」
「ん?」
「ありがとね」
「……何が?」
 初子が笑って。
「なんでもない。行こう汀ちゃん、お祭り終わっちゃうよ」
「うん」
 手を繋いで歩き出す。

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