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水鈴(3/3)
「……ここは」
社の前。
夜店の明かりもいつのまにか消え、人のいない荒れた神社の境内に灯る常夜灯の明かりだけが頼りの暗い暗い静寂。
「こっちに何かあったっけ?」
初子はなおも手を引き、社の裏へ、そして藪の中へ。
「ちょっと、浴衣汚れちゃうよ?」
それでも手を離さないで汀はついてきた。
袖から出た二人の腕が白く光る。汀の足首に蚊がまとわりつく。
「なんでこんな……」
瀑音が近い。
もはや灯りは空の濃紺しかない世界で、どこにあるかもわからない滝と崖が近づいてくる。距離はまだある。いや目前か。見えない不安が恐怖となり。
「ちょっと、こんな方に何が……」
言い切る前に初子が立ち止まった。
無言の初子の横に汀が立つ。
「蛍、いなかった……」
初子がぽつんと呟く。
「蛍が見たかったの?」
汀が少し前に出て。
瀑音は左方から。
足元からは水が大きな石にぶつかる水音が聞こえている。ここは滝の上の河原のようだ。
「蛍は梅雨が明ける頃だよ。あー痒い。虫に食われちゃった」
片足を上げて汀が片手で膝を掻く。
浴衣の白い部分が揺れる。
少しだけよろけて、その震動で鈴が鳴る。
「そっか、残念」
初子はそっと汀に向き直る。
「汀ちゃん」
汀はまだよろけていた。
「何?」
「十五歳の誕生日、おめでとう」
繋いだ手が離れた。
「誕生日というか何というか……。どうしたの? 急に改まって」
汀はふらふらと辺りを見回している。
殆ど色をなくした空だが、本当の黒色をした山の稜線がまだ微かに浮かんで見える。
「その着物と髪飾りは、汀ちゃんにあげる」
「え、……なんで」
「嬉しいでしょう?」
「もちろん嫌じゃないよ、でも」
と言った時。
汀は自分の背後に幾つもの光が集まっていることに気付いた。
ゆらめく赤い光。たいまつか何かの炎。
「……何?」
光は汀を取り囲んでいた。
その炎の下に人の姿が浮かび、光の下にそれぞれ何人かの人間がいることを知る。
囲んでいる人達のうちの誰かが言った。
「初子」
初子は黙ってそちらを振り返る。
「おまえはここから去れ」
言われて、初子は返事もせずに踵を返した。
汀は何が何だか解らず、初子の背中を視線で追うも声を出せずにいる。
「水害、飢饉、貧困。近頃水神様が怒っている」
囲んでいる人達の誰かが大人の声でそう言った。
暗闇に消えて行く初子の足がふと止まって。
「ねえ、汀ちゃん」
たいまつに照らされた初子の表情が暗くてよく解らない。
「本当のお母さんに会いたいって、今でも思う?」
「え?」
状況が飲み込めない上に唐突な質問で、汀は。
「どうしたの?」
と聞き返すことしかできない。
「今でも思う?」
初子がもう一度聞いた。
「……うん」
やっと小さな返事が返る。
初子は頷いて。
「きっと叶うよ」
「え?」
「汀ちゃんが願ったことは、きっと叶うよ」
と言って、今度こそ本当に暗闇に消えて行った。
「後のことは想像すら難しい」
と坊主は言った。
「私のところに来たのは三つの頃だったか。初めから決まっていたこととは言え」
川を遡り、滝の下に立つ。
そこに誰かがいるわけでも何が変わったわけでもなくただ莫大な水が空気を押しのけて地面を穿っているだけだった。
泡立って真っ白になった水面。しぶきが目に染みるような錯覚。
「これで水神様の怒りが収まるからとて、愚かな」
空気が湿り気を帯びて冷たい。
坊主の隣に立つ初子は。
「村の皆で十二の願いを叶えたから、十三回目の誕生日は村の皆の願いを叶える番だと」
滝を見上げる。
しぶきが薄日に輝いている。
「神主さんはそう仰っておりました」
昨夕この村に着いた時に着ていた着物の袖で初子は顔を拭う。
「十二の願いを叶えた? 騙していたのであろうが! 村の全ての者が!」
坊主はそう怒鳴ったが、やがて静かに滝に手を合わせた。
「私も同罪だ」
「そうですね。私も……」
「帰ろう、初子もここにいるのは辛かろう」
小声では会話も聞こえないようなこの瀑音の中で。
「待ってください。……これは」
微かに涼しげな高い音が聞こえる。
あたりを見回したが他に人はいない。
今ここにいるのは坊主と初子だけ。
「鈴の音……?」
その時初子は見た。
水面の真っ白の泡の中、日の差した泡の向こうにたゆたう薄紫を。
「……」
「どうした初子」
「汀ちゃんの十三個めのお願い事は叶ったのでしょうか」
「……さあ」
あの子はきっと。
大好きな鈴を鳴らし続けるのだ。
この場所で。
「さようなら、汀ちゃん」
初子の鳴き声も涙も瀑音と飛沫に飲まれて混ざり消えて行く。