更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月二日の章 初見の従兄弟と婚約者 > 4/5

 

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――俺さっき何喋ったっけ?
 案の定だ、というのは自分で理解できる。
 だが、間に何がどうなっていたのかが説明できなくては本末転倒だ。結局記憶は飛んでいるのである。
「うー」
 気持ち悪い。
 思わず縁側の窓を開けて外に顔を出す。
 勝手を知らないこの家のトイレを求めて家捜しを始めるより、その方が今は何より手っ取り早かった。
「うー、寒っ」
 寝巻き代わりのTシャツ一枚にはあまりにも寒い空気が容赦なく背筋をなでる。
 縁側に降り立ち、運良くそこにサンダルを発見する。宗佑はすかさずそれを履いて、吐いても困らない場所を求めてもつれるように歩き始めた。
「今何時?」
 振り返って、部屋の壁時計を見れば二十三時四十分。
 五月二日も終わりを告げようとしている。
「うっ」
 丸い文字盤と針の動きに目が回って再び吐き気が襲う。
――ん?
 涙ぐむ視界で何かが動く。
 小さな風車のような動きをする白い物体が、この田んぼより三つ向こうの畦のあたりで動いている。この家が少し高い位置にあるので遠くの田んぼまで見渡せるのだ。
――何だアレ。
 足元にあったドブにとりあえず出すものを出してから、もう一度顔を上げる。
 これほどの長距離を都会で見通すことが少ないが、大体五百メートルは離れているだろうか。
 水鏡に星までもが映り、その風車のようなものも鏡の中で微かに揺れている。
 透明な銀色の光の下で、白く光を放つそれが布であることをやがて宗佑は知ることになる。
 なぜなら、宗佑はその足でその目標にさらに近づいたからである。
 彼女は田んぼの中を突っ切る細い砂利道の真ん中で、足音も出ない舞を舞っていた。
 時折聞こえるのは袖の立てる布擦れの音。両手足を鮮やかに滑らせ、彼女は一心不乱に風を作っていた。

「……あの」
 ひと段落ついたのを見計らって、そっと声をかけると。
「え? あの、顔色悪いですよ? 大丈夫ですか?」
 彼女は一言目にそんなことを言い出したのだ。
「あ、今ちょっと吐いたところで。でも吐いたから大丈夫」
 唇についた胃液を嘗めるようにしてから、宗佑は慌てて彼女の心配を断ち切る。
「吐いた? ……口ゆすいだ方がいい? そこの水は飲めますよ」
 足元の用水路を指差す。
「あ、ありがとう」
 少し水を口に含む。
 歯に染みるほど冷たかった。
「大丈夫ですか? あの、救急車とか」
「いや大丈夫。それより、あなたは今ここで何を?」
 と聞くと、彼女は質問をそっちのけにして、不思議そうな顔で宗佑を見据えた。
 それはまるで満月のような瞳だった。
「あれ、この辺で見ない顔だ……どなたですか?」
「え? ああ。俺は、そこの、昭島さんの家に泊まっている、東京から来た者です」
「東京!?」
 彼女は途端に素っ頓狂な顔を上げた。
 宗佑は慌ててまわりを見回す。
 ……が、それは要らない心配だ。近所迷惑も何も、ここには二人以外に誰もいないのだから。
「東京から、わざわざこんなところへ?」
「ええ、まあ。厳密には大阪に住んでるんですが、実家は東京です」
「本当? 凄い、東京から人が来た……」
 彼女はまさに興味津々といった態で宗佑の顔をのぞきこむ。
 つい今の今まで静かに舞っていた様子からはまるで想像の出来ない態度だった。
「こんな田舎に何かあるんですか?」
「いや、実は俺はそこの昭島の親戚でして……」
 彼女は、もう一度不思議そうな顔をする。
「親戚? 親戚が、東京? 何それ」
「ええ、まあ。親父はここで育ったようですが」
「はあはぁ。なるほどなるほど」
 彼女は暫く、じっくりと宗佑を眺めて。
 やがてニッコリと笑顔を作る。
 目のよく光る人だな、と思った。目を輝かせるというのは具体的にはこういうことをいうのだろうと思えるほど光を反射する目だった。
「で、こんな夜中に何をしに?」
「いや、散々飲まされて、ちょっと気持ち悪くて。……それで、吐いた後の散歩がてら」
「ああ、なるほど。夜風は気持ちいいですよ」
「ホント気持ちいいですね。……五月にしてはちょっと寒いけど」
「ああ、それは」
 彼女はくるりとまわってから田んぼを指した。
 身のこなしはさっきの舞の通り。極めて軽やかで滑らかなものだ。
「最近田んぼに水を引いたからですよ。ちょっと気温が下がるんです」
「へえ」
「東京に田んぼは無いんですか?」
「無いですね。都心には」
「ホントに全部コンクリートなんですか?」
「え? うーん、まあ土よりコンクリやアスファルトの方がずっと多いかな」
「はあー。やっぱ東京って凄いですね」
 彼女は首をひねりながら、まるでそのコンクリートジャングルを初めて見たとでもいうような顔で宗佑の顔を見る。
「……ところで、君は?」
「え?」
「さっきの舞は? 凄くキレイだったんだけど」
「ああ、キレイだった? それはどうも」
 彼女はまず姿勢を正して、布のしわを伸ばして見せた。
「確かに衣装はキレイでしょうね」
 下の紫の袴に、上は白衣。少し巫女装束に似た格好だが、白衣にはほんの薄い模様が入っている。
「いや、衣装じゃなくて舞がさ」
「そうですか? 今度神社で披露する機会があって、練習してるんです」
「練習?」
「そうです」
「大変ですね」
「晴れの舞台ですから」
 彼女はもう一度くるりとまわって見せた。
「何か羨ましいな、そういうの」
「そうですか? こんな田舎で踊ったって何も面白くないですよ」
「いや、でも、東京じゃこんなことやらないし」
「そうなんですか? でも私は東京の方が憧れるなぁ」
 再び、彼女は宗佑を凝視する。
「ここは何もない村なんです」
「舞があるし、田んぼもあるし、何って言うか田舎情緒というか……」
「そんなの要りません。コンビニと本屋と職場の方が私は欲しいです」
 そう言って笑って見せた。
「殆どみんな農家の後継ぎ。スーツ着て就職とかしてみたいですよ。面接とか」
「いや、アレは絶対楽しいもんじゃないと思うけど」
「でも憧れるんです」
「そうかなあ」
「都会の人はみんなそう言うそうですね。謙遜して」
 彼女はもう一度笑った。
「それでも、都会は羨ましいんです」
「そう?」
「……自由ですからね」
 そして今度は彼女は月を見た。
 

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