更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月三日の章 田舎村観光 > 10/15
「り、理穂さん、逃げないと」 「大丈夫」 理穂はなおも慎重な態度だが、決して恐れてはいないように見える。 獣は二足歩行で、ゆっくりと理穂の前を、続いて宗佑の前を通り過ぎようとする。 宗佑はその間に、相手の姿を見据える。 身長はだいたい理穂と同じくらい。動物の二足歩行にしてはあまりに滑らかな挙動で歩くそいつは、宗佑の前を少し通り過ぎたところでピタリと足を止める。 「外の者か」 問いに答える暇は無かった。 次の瞬間に振り返ったそいつは、更にその次の瞬間には宗佑に飛びかかっていたのである。 「うわっ」 強力な突進になすすべもなく、木の幹にぶつかって寄りかかるようにしていた宗佑は、隣の別の木の幹に背中から叩きつけられた。 自分の胸を押さえる相手の腕に目が行く。 黒い毛皮の腕の先端から突き出ているのは、白い人間の指。 「我が姿を見たよそ者は、消える」 もう片方の腕らしい毛皮の膨らみ、その先端からは銀色の直線が見える。 「ちょっと、何なんだよおまえ」 「今から死ぬきさまに関係ない」 振り上げられた右手を覆う毛皮からはみ出ているのは、やはりナイフ。 ……が、敵はその腕を振り下ろさずに言う。 「瀬見理穂、村の掟に逆らうな。我々は村の者の味方だ」 宗佑は焦点を変え、敵の肩の向こうに見える理穂の姿を捉える。 彼女は、この敵に飛びかかろうと構えていたらしい。 「安心しろ、きさまの死はこの村に受け継がれる」 敵は中性的な、声変わり前の少年のような声で宗佑に語りかける。 頭のような盛り上がりもあるのだが、その中の目も口も全く見えない。 「だから、死ね!」 結局その腕は振り下ろされた。 が、それは奴が突き飛ばされた後だった。 「何っ……」 ナイフは目標を外して木の幹に深く突き刺さり、敵はバランスを崩して傾いた体勢になっていた。 宗佑はその隙に幹から離れ、黒い敵の背後に回る。 「理穂さん」 敵を突き飛ばしたのは、他にいない。 「大丈夫?」 理穂も酷く動揺した様子で宗佑の体を見回す。しかし理穂が危惧するものは宗佑の体には刻まれていないから大丈夫だ。 「おのれ」 敵はナイフを諦めて振り返り、再び宗佑に飛びかかる。 その右腕には、また銀色のものが握られている。 「まだ持ってたのか!」 思わずツッコミを入れた宗佑は、身をかがめる反応すら出来ていない。こんな時に何をしたらいいかなんて全く解らないのだ。 だが。 「……なっ」 驚きの声をあげたのは敵の方だ。 宗佑も続いて驚嘆を口に出す。 「理穂さん!?」 宗佑と敵の間に割って入ったのは、横にいたはずの理穂だった。 理穂はすぐさま宗佑の前に立ち、目を見開いて敵を凝視する。 「……く!」 敵は腕のスピードを殺そうとした。が、到底止まれる位置でも速さでもない。勢いのついたナイフが、理穂をめがけて振り下ろされる。 「くっ」 歯軋りと漏れる声。 理穂は必死に相手の腕を払いのけようとしていた。 その瞬間に起きたことを、宗佑はまだ信じられないでいる。 敵は叫び声を上げて蹲り、その次には走り去っていた。 理穂はまだ、手を払いのけた時の姿勢のまま、振り上げた手を下ろしてもいない。理穂にも何が起きたか解っていないのだろう。 「……何が起きた?」 「さあ?」 だが宗佑の目には焼きついている。 あの瞬間、触れ合った腕から発せられた閃光を。 暗い森が今もまだよく見えない。それほど強く目を眩ませたあの光は。 「……たまに、こういうことが起こる。よく解んないけど」 という、説得力のかけらも無い理穂の言葉で説明された。 「静電気みたいなもの……かな?」 そう言いながら、理穂は宗佑の背中にまわって付着した土や木や苔の粕を払う。 静電気と言いつつ、今宗佑の体に触れる手から電流などは流れてこない。あんな強い閃光も、あの敵のように叫び声を上げるような衝撃も、理穂の手から発せられるはずが無いのだ。 「行こう」 払い終えて、宗佑を置いて一足先に進んだ理穂。 宗佑は慌てて後を追うが、歩いていては追いつけないくらいに理穂の歩速は速くなっていた。 ほんのすぐのことだった。 「何か生臭くない?」 と宗佑が呟いたのと、理穂が歩きを止めたのは同時。 二人が行動を止めてしまえば、後は木の葉の擦れる音以外に何の音もしない、ただの森の中。 辺りに動くものの気配さえない。 「……理穂さん」 宗佑はしゃがみこんで。 「これ、血じゃ」 と言ったあと、必然的に二人の目はその跡を辿った。 終点に行き着くのに一秒もかからなかった。 「う、うわっ」 宗佑が第一声を。 「啓太!?」 次は理穂が放った。 僅か数歩の距離を駆け寄った先には、夕べ宗佑に酒を散々飲ませた男が横たわっていた。 仰向けに寝ているその様はまるで眠りを想像させるが、状態はそこまで穏やかではない。腹部は何箇所も刺され、胸は左肩から袈裟切りに裂かれ、それぞれの傷口からは粘り気の強い血液が、流れた跡だけを晒している。 目は見開かれ、唇は変色し、裂けた服からは傷口のまわりが青黒くなっているのが覗ける。 「……これ」 宗佑が後ずさりをした時、理穂も一歩を下げていた。 「と、とにかく人を呼ばないと!」 言葉と同時に飛び出したのは、単に怖かっただけかもしれない。 宗佑はあっという間に理穂から引き離されたが、二人は一目散に坂を下った。 |