更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月四日の章 赤の融合 > 8/14

 

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 白い普段着を着た理穂と並んで歩く田んぼ道。
 とうに沈んだ太陽の名残か、空がぼんやりと青紫色に地面を照らしている。見上げれば星。このゴールデンウィークは天気に恵まれた。
 遠くに明かりの点いた民家が見える。だいたいどこの家も夕食時か、そろそろ洗い物でもしている時間帯だろう。
 数百、数千の蛙の輪唱が響き渡る。すぐ近くからも、山の麓ギリギリの田んぼからも、この田んぼ一円にどれだけの蛙がいるのだろうか。聞き分けようとすれば気が遠くなるほどに重なり重なった鳴き声は田舎の代名詞でもある。
 空気はまだ少しだけ温かさを帯びてはいるが、時折吹く風が酷く冷たくて熱を吹き飛ばしてしてしまう。
「寒いな、東京とは布団一枚分くらい違うよ」
「この時期は特にね。教えたよね、田んぼに水入れたから気温下がるって」
 理穂は当たり前のように答えた。だがその理屈は、宗佑にとってはわざわざ思考を介さなければ理解できないものである。
「で、どこへ行くの?」
「ん? 新婚旅行」
「は?」
「嘘だって。ちょっと神社へ」
「神社って、あのタカコマ何たらって奴?」
「そ。ちょっとお話をしようよ。最初の夜だし」
 電灯もロクにないような道だが、僅かに光る空と、数え切れない星が足元を照らし出している。ただし、空に月の気配はない。
 理穂はそんな、殆ど見えているかいないかのような道を慣れた足取りで進んでいく。三日の夜、理穂が舞の練習をしていたあの道を通り、用水路脇の道を通り、何軒もの家を見て、そして十字路を左に曲がればその先には多数の建物と、そしてそびえる背の低い山。
 道の両側の家々には明かりが灯っていて、開いた窓からは食器の音やテレビの音が聞こえる。子供や大人の話し声も稀に漏れてくる。
 昨日理穂と昼食をとった食堂も、入り口のシャッターは閉まっているが、二階の電気は点いていた。見上げると、ちょうど蛍光灯が道からも見える。その光が妙にまぶしい。
「さ、覚悟はいい?」
 いきなり何を言い出すのかと思えば、目の前には石の階段。
 当然ながら人の気配などなかった。
 昨日も、今日の昼も登ったあの強烈な階段。
 表面が研磨されていない切ったままの石で、コケや木の粉や砂粒がこびりついて、古い石独特の感触を作り出している。まわりには森しかない。
「これ登んのか」
「登るのです」
 そう言って、理穂から一歩目を踏み出した。
「……ねえ、何段あるんだ?」
「確か百六十五段」
「……」
 黙って登り始めてはみたものの、一段一段も大きく、その上コケなどで滑りやすく、おまけに石の組み方が平らではなく水平でもないため、歩きづらいことこの上ない。建物からの明かりで少しだけ輪郭が見えているのが救いとは言えるが、それも自分の影に飲まれてしまい、結局足元は見えない。
「何で、こんな上に、神社作った、作ったんだよ」
 宗佑は息も絶え絶えに文句を言った。
「……さあ。昔の人に聞いて。大昔からここを鎮守にしてたみたいだし」
 理穂はやはり平気な顔してそう答えた。
「もう疲れた、もう勘弁です」
 まだ階段の天辺が遥か遠くに見えているのに、宗佑は情けない声でそう言う。
「……もう?」
 相変わらず理穂の息は至って正常だ。
「それなら先行ってるよ。後からゆっくり来てくれればいいから」
 そう言い残して、極めて規則的で少し早めの足音が、宗佑の耳から遠ざかって行く。
「勝てないなぁ」
 男だから、という見栄はもろくも崩れ去る。
 

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