更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月四日の章 赤の融合 > 9/14

 

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 最上段では、理穂が柄杓に水を汲んで待っていた。
「飲む?」
「ありがとう」
 歯に染みるほど冷たい水が体を労わる。
 理穂は全く疲れた様子も見せずに、自分だけさっさと手水を済ませている。宗佑は手水舎で適当に手を洗って、それから理穂のあとを追う。
 表の社は、賽銭箱の上に電灯が灯っていた。白熱灯のおぼつかない光に浮かび上がる板に書いてあるのは、「鎮守多咸高麻達仁神社」という墨で書いた文字。中は真っ暗で人の気配も無い。
「夜来ると不気味だな」
「だねえ」
 理穂は昨日の昼間のように、社の脇を通って、あの小屋の前の広場へと進む。
「……新婚旅行って、結婚式場を再訪することじゃないぞ」
 おもしろくも無いツッコミを入れると。
「あはは、そうだね」
 理穂の受けは意外に良かった。
 小屋と社の隙間から見える奥の平屋の建物の前には、蛍光灯一本の明かりが見える。建物の中の明かりも点いており、やはり人が住んでいるようだ。昼間見た巫女達も、ここに住んでいるのだろうか。
「ちょっと暗いけど」
 と、理穂はまさに暗がりの中に突っ込んでいく。
 そこは、「恋人の願いが叶う」とか何とか言っていた洞窟のあるところだ。
「こんな方に用が?」
「新婚旅行だから」
 知らず知らずのうちに、既に洞窟に足を踏み入れていたらしい。突然、自分の体がたてる音の反響が大きくなり、頭上が閉塞していることを知る。
「あ、あった」
 と言うのと同時、情けないほど暗い明かりが理穂の手元から現れる。手に握られているのは鉄の棒だった。長く細い棒の先に皿のようなものがつけられ、その上にろうそくが載っている。
「さ、行くよ」
 と、妙に嬉しそうな理穂は洞窟を奥へと進む。
「意外に深いんだな」
 宗佑も後に続く。
 宗佑の身長よりも二回りも高い天井。両壁も、何とか二人が擦れ違える程度は確保されている。道は曲がりくねり、少しでも理穂から遅れれば理穂の姿を追えなくなってしまう。
「……ん?」
 土の色が変わった。
 さっきまでの赤茶色から、徐々に黒く、湿った土へと。
「あの、理穂さん」
 理穂はそこで足を止めた。
「何か臭くないッスか?」
 宗佑が訊ねると、理穂が振り返る。
「何の臭いだと思う?」
 どこかで嗅いだことのあるような、無いような。
 少なくとも言えることは「強烈である」という認識。
 生ゴミの臭いか。似ている。しかし違う。
 小便の臭いか。少しだけ似ている。しかしそれでも無さそうだ。
「これはね、肉の腐った臭いだよ」
 と理穂は言う。
「道端で動物が死んでる時とか、こういう臭いしない?」
「いや、道端にそうそう動物はいないから」
「……あ、そう。都会はそうなんだね」
 都会の道端に動物は滅多にいない。せいぜい夜中になると飲食店街をねずみが這い回る程度だ。その死体があったとしても誰かがすぐに片付ける。
「でも、ここで何でそんな臭いが」
 洞窟はこの場所で行き止まりになっていた。
 奥の壁にも、手前の足元にも、べつに死体など転がっていない。
 ただ足元の土の色が変色しているだけ。
 その色は、黒に近い。が、僅かに赤みを帯びているようにも見える。
「……これって」
 冗談だろうと、宗佑は苦笑いしながらそれを言おうとした。
「そう、人の血」
 宗佑の、危惧どころか仮説ですらなかった考えを理穂はあっさりと肯定した。
「え? マジで?」
「本当に」
「え……だって」
 だってに続く言葉は水かけ論でしかない。
「でも、人の血って……」
 宗佑はしゃがんで土に触れる。湿った、ざらざらした、不揃いな、ただの粉である。掴んだところで何が判るわけでもない。
「でも、でも」
「それはここが、男女がひとつになる神聖な場所だからだよ」
「え、でもひとつになるって……」
 言おうと思って、とても口に出せる単語ではないことに気づく。
 が、理穂はむしろそれに笑って。
「ああ、あの話ホントに信じてたんだ。まあ間違いじゃないんだけど」
 と、妙に嬉しそうに宗佑を見る。
「ひとつになるって言っても、もっと具体的な意味で、なんだよ」
「……具体的?」
「うーん、そうだねえ」
 ろうそくの火が揺れる。
 理穂の輪郭も揺れ動く。
「そうだ、クモの雄と雌と同じことだよ」
「クモ?」
「あー、あと、カマキリもそうだったかな」
 理穂はろうそくを地面に置いて、改めて宗佑の顔を覗き込む。
「この村は昔はとてもまずしい村で、女の人は、子を産むだけの力も持ってなかった」
 宗佑は理穂の顔を、姿を凝視する。特に痩せ過ぎているというわけでもなさそうなので、理穂の話は理穂の言うとおり、昔話なのだろう。
「昔は子供を産むのも命がけだったからね。じゃあ村の人達は、どうやって命を繋いだと思う?」
「……えっと」
「夫の力を借りるのよ。二人で力を合わせないと、子供は産めないから」
「力を合わせるって? 助産婦みたいなことするのか?」
「いや。具体的に言えば、夫を食べるってことになるね」
 自分の顔から血の気が引いていくのが自分で判った。
「子供を産むってのはそれだけ大変なことだったの。自分一人もロクに生きていけないような村で、新しい命を作り出すことがどんなに大変だったか」
 顔の半分を影にした理穂が、なおも宗佑の顔を直視する。
「……あの、じゃあ、願いが叶う洞窟ってのは」
「そう。ここで男を食べ尽くしてひとつ≠ノなって出てくるのよ。この村の女は」
 理穂の笑み。
 宗佑は今さら身の危険を覚える。
 そう、理穂の夫は宗佑なのだ。
 

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