更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 2/21

 

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 犬はだいぶ年老いた白い柴犬で、理穂が言うには多少目が悪いようだが、理穂が散歩用のリードを手にしたのを見ると途端にはしゃぎまわった。その仕草はまるで子供のようで、宗佑の足に両腕をかけて臭いを嗅ぎまわっては尻尾を振る様子も子犬そのものだ。
「人懐っこいな。名前は?」
「瓜実」
「ウリザネ? 何それ」
「瓜実顔の瓜実」
「いや、だから、瓜実って」
 首をかしげる宗佑に、理穂は笑って。
「私も最初は意味解んなかったけどね。お母さんが名づけたから」
「……」
 理穂の母親はいない。
 瓜実という犬は、理穂の母を知っている。
「……ねえ、そこで黙らないでよ。私は瓜実がかわいいだけ。昔のことなんて気にしてないんだから」
「ああ、ごめん」
「ちなみに瓜実顔って、美人のことね。美白で、鼻筋が通ってて」
「いや、美白って……だいたい鼻は通り過ぎじゃないのか?」
 悪口を言ったのが聞こえたのか、どうか。
 瓜実は宗佑の傍を離れると、途端にリードを強く引き出した。理穂の腕が釣られて伸びるのが解る。老犬だが結構な力だ。
 瓜実はまず田んぼの中の細い砂利道を進み、突き当りの電柱の臭いを嗅ぎまわった後、また砂利道を右に出る。太陽はだいぶ赤みが抜けたが、風はまだまだ夜明け前の肌触り。蛙も何もかも泣き止んだ盆地のこの村の空気を、二人と一匹の足音が震わせては無音に吸い込まれていく。
「あら、おはよう」
 田んぼで何やら作業をしていた老婆が、二人を見上げて会釈する。
「昨日はおめでとう」
 理穂は宗佑と顔を見合わせる。この老婆は、火事のことを知らないのか。それとも、知って言っているのか。
 瓜実は再び理穂の手を引き、田んぼの中の道を歩き続ける。途中の電柱の臭いを嗅ぎ、脇の水路から水を飲み、石の橋を超え、草むらの中から蛙を探し当て。
 その果てに辿り着いたのは、道からほんの少しだけ登ったところにある土地。
 なんでもない短い坂を登り、家のあったはずの場所を見る。
 墨と化し切ったその塊に、人の気配など感じる余地もない。土台部分も露わになっていて、原型を留めている物なんか何ひとつ無い。
「………」
 瓜実は首を傾げてから、理穂の手を強く引いた。
 理穂は、リードを離してなおも立ち尽くしていた。
 

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