更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 10/21

 

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 暗闇の中を走った。時に理穂に手を引かれながら。
 気温の下がりきった風の中、体にまとわりつく熱気。理穂はやはり息を切らさない。
 もはやどこが道かなんてだんだん解らなくなってきた。とりあえず木の生えていない方向を走れば道なのだろう。もしそれが獣道であったなら、それで最後だ。
 石につまずいて盛大に転んだ。土と枯葉を巻き上げ、世界が反転し、打ちつけた膝と少し捻った腕が痛んで宗佑の動きを固まらせる。
「平気?」
 足を滑らせながら走りを止めた理穂は、まだ笑顔の余韻の残る顔で振り返って。
「早く」
 差し出された手に遠慮なく甘えた宗佑、二人は再び走り出す。

 今から三十分ほど前。家を飛び出す直前、理穂は昼間の手紙を宗佑に差し出した。
「……読めって?」
「うん」
 受け取った封筒を表にして見回す。
 宛名は「瀬見理穂様」になっている。左上の切手には、確かに消印が押してある。日付は五月三日、つまり差し出されたのは前日の収集時刻以降で、啓太が失踪するまでの間の時間である。
「手の込んだ悪戯じゃないのか。これも暗護佐の連中がやったとか」
 と理穂に言ってみると、理穂は首を横に振った。
「これは悪戯なんかじゃない」
 理穂の言葉を聞きながら、便箋を取り出す。
「その字は間違いなく啓太のだよ」
 見れば、半端でないほど粗暴な字だった。
「見間違えるはずもないくらいに啓太の字だよ……」
 宗佑は便箋の文字を追う。
 笑えるぐらい汚い字で、「理穂へ」と書いてあった。
 
 
 
 理穂へ。
 だまって飛び出してすまん。でも先に理穂に知らせちまうと理穂がアンゴノサの連中からごうもん受けることになるから悪いけど理穂にもだまされてもらうことにした。理穂は村のしきたりにしたがえないって言ったな。おれもこの村でこの若さで死にたくない。けどおれは理穂のことを本気で好きになってしまった。おたがいにわるいことになるって決まってるのに。だからおれは村の外に出ることにした。外に出て、二人でくらせるようなじゅんびをしとく。じゅんびできたらおれがむかえに来る。だからそれまでは、じん社の連中の仲間にならないで待っていて欲しい。おれがすぐに迎えに来るから。

 
 
 
「あのバカ……」
 と、走って乱れた自分自身の呼吸しか聞こえていなかった宗佑の耳に、隣を走る理穂の呟き声が入る。宗佑が手紙を読み終えた時にも同じことを言っていた。
「またあの手紙のこと?」
「……ったく。私のこと、好きなのか嫌いなのか」
 理穂の足が遅くなる。
「……もう走らなくてもいいんじゃないか? 村は抜けたし」
 宗佑は振り返る。
 村なんかとっくに見えなくなっていた。啓太が死んでいた場所もとうに通り過ぎている。
 理穂もゆっくりと速度を落として。
 それから、誰に向けた言葉か。
「好きになってしまった≠セって? それなら何で私を悲しますようなことするんだろうね」
 などと言って宗佑を凝視する。
「俺には解んないよ……」
 すっかり息の上がった宗佑は、その顔を直視することさえできず。
「宗佑君こそ、本当に大丈夫?」
 と、理穂はそんな宗佑を根気良く見続ける。
「どの道いつかは食い殺されるんだ。だったら……」
 宗佑のその言葉に理穂はため息、いや深呼吸。
 どうやら理穂も息を切らしていたらしい。
 そして村と離れる方向へ歩き出す。
「そう、有益な判断だ」
 宗佑の腕を掴む手。
 何事かと理穂を振り返ると。
「その覚悟が我々の糧」
 理穂は一回り背を高くして、黒い獣の毛皮を被っていた。
「……あれ?」
 宗佑は首を傾げる。
「理穂ちゃん?」
 呼びかける合間に、相手は鉈を振り上げていた。
「バカ、逃げて!」
 振り返れば理穂は更に後方で、もう一体の毛皮の奴に羽交い絞めにされていた。
「うわっと」
 ようやく状況を理解した宗佑が飛び退る、鉈は空を切った。振り下ろされた瞬間にその腕からのぞいた素肌は、白くて凹凸の激しい質感。
「ちょ、ちょっと、何が」
 まわりを見回す。
 毛皮は四人もいる。
 足を止めた僅かの間に追いつかれたのだ。
「逃走は即ち死。きさまは知っていたはずだ」
 背の高い奴が言う。
 羽交い絞めにされた理穂の顔は苦い。見れば、理穂の首にはナイフが突きつけられている。
「何だよ、おまえら四人もいたのかよ」
 宗佑は他人事のように笑う。
 余裕があったから、ではない。あくまで願望の表れだ。他人事でありますように、と。
 

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