更地のノート > 物語 > ひとつむぎ > 五月五日の章 甘い味の新婚生活 > 13/21

 

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「私ね、理穂ちゃんのことが好きだったんだけど、どうして断るの? 私、理穂ちゃんのことが好きだから、男の人との結婚を全部断っちゃった。それに暗護佐になれば、いつかは理穂ちゃんの血肉を受け継げるから」
 今の理穂の表情は、敵意と、少しの怒りと、恐怖が混じっていた。夕べの火事の時だってここまで焦った顔は見せなかったのに、である。
 対する毛皮の奥からは、かすかに笑い声が漏れる。
「食べてみたかったのよ。理穂ちゃんの容姿も、心も、その特殊な力も欲しくて」
 今にも噛みつかれそうな距離に、獣の皮の口が寄る。
「変な力ならあなた達も十分持ってるでしょうに」
 理穂は肩を振って、そいつの鼻面にぶつけた。
 極端に距離のなかった理穂の肩と相手の鼻。その獣は顔面を押さえて大きくのけぞった。
「あ、蓮華!」
 宗佑を掴んでいる奴が叫ぶ。
――チャンス!
 うっとうしい背の低い二人が同時に怯んでいる。
「どけっ!」
 まずは自分を掴んでいる方を振りほどいて、適当に突き飛ばしておく。続いて、今こちらを振り返った、中背の奴に手をかける。
「逃げるぞ、理穂!」
 その、理穂の目の前に立っていた、中背の黒装束に腕を伸ばしたはずだった。
 が、宗佑が触れたのは。
「わっ!?」
 理穂だったのだ。
「あれ?」
 振り返る。
 突き飛ばすはずだった黒装束は、宗佑の背後に回りこんでいた。
「見えていましたよ」
 そう笑われると鳥肌が立つ。
 何の恐怖だろう。相手の表情も見えない、所詮はただの人間を相手に、何をこれほど恐れることがあるのだろう。
「……大丈夫か、理穂さん」
 まだ背筋をこわばらせたまま、正面を向き直る。
 宗佑の渾身の一撃を受けた理穂は大きくのけぞって、そのまま向こうの地面へと倒れ込んで。
「あっ!」
 今まで理穂を羽交い絞めにしていた、蓮華とかいう奴が最初に声をあげた。
「まずい、理穂ちゃんが!」
 聞こえるのは、大量の枯れ葉が滑る音。
「あーーーーーっ!」
 今度は、背の高い奴も、中背の奴も、低い二人も、同時に大声をあげて騒ぎ出した。
「しまった、これじゃ……」
 黒装束達が騒ぎ立てる中、宗佑は恐る恐る、倒れ込んでいる理穂の方へと歩き寄る。まさか、今のでケガを負わせたということか。
「……え? あれ?」
 だが、理穂はそこに倒れていなかった。
 それどころではない。そこには、地面さえなかったのだ。
「ここ、崖だったのか?」
 急斜面に生えている木の輪郭はかすかに見える。だが地面は暗い上に角度が急で殆ど目に映らない。枯れ葉と土を巻き込んで大きな物の落ちる音が、下からまだ聞こえている。
「蓮花姉さん、どうすればいい?」
「落ち着きなさい、蓮華」
「でも、今から探しに行くのは……」
「だから落ち着きなさい。……靖様、いかが致しましょうか?」
「とにかく宗佑を捕まえておけ。理穂が生きていれば人質として使おう。麗」
「はい、靖様」
 さっきまで宗佑を捕まえていたあの背の低い奴が、一歩進み出た。
 が、その時には宗佑は既に四歩も前に進んでいたのだ。
「うおおおお、止まんねーっ!!」
 今さら後悔する。この斜面は、もはや斜面ですらない。体は時間に比例して加速していく。小石、小枝、木の根、視界に飛び込んでは全部後ろに流れていく。
「あーーーーーーっ!! 宗佑が!」
 上からは、実に心地よい驚きの四重奏が聞こえた。
 

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