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「いってぇ……」
 何が痛かったかと言えば、体に当たった木の枝や石ではない。
 掴まれたその手首だ。
 握られて痛いわけでも、引っ張られて痛いわけでもない。腕全体の筋肉が大きく弾け、手首には痛みよりもむしろ熱を感じた。
「……大丈夫?」
 理穂の声。
「……うん」
 その手にひかれるまま大成を立て直す。
「奇跡ってゆうか何っていうかだね」
 理穂の体は木の幹にしっかりと支えられていた。理穂は宗佑の体を更に引き上げて同じ幹に掴まらせる。
「ふぅ。よかった。俺、理穂さんを殺しちまったかと思った」
「結果オーライ。でもね」
 理穂は自分の体についた土を払い落としながら。
「私達、ここから動けないんだよね」
 宗佑は試しに斜面を触ってみる。
 軽い小石や葉の転がる音が聞こえ、それがすぐに遠ざかっていく。そっちが崖下だ。
「この木が無きゃ、私達もオダブツ」
「……」
「降りても滑っちゃうよね。次も運良く引っかかればいいけど」
「……」
 宗佑は空を見た。
 殆ど判別できないような明度の差でこの木の枝葉がうっすらと浮かんでいる。
 夜明けの気配はまだ無い。
「ここで夜明けを待つか」
「でも宗佑君。斜面の上を見てごらん」
「上?」
 恐る恐る幹から身を乗り出して斜面の上の方向を見る。
 揺れる明かりが二つ。恐らくあいつらだ。
「……二つ?」
「確か四人いたよね」
「あとの二人は?」
「たぶん安全な道から下に回ってくると思う」
「じゃ、じゃあ」
「このままここにいたら挟まれるよ。上にも下にもいけない」
「なら、今このまま降りるしか」
「滑ったら終わりだけどね」
「……」
 黙る宗佑に理穂は笑った。
「大丈夫だよ。ほら、次の木が見えるでしょ?」
「あれか」
「そこめがけて」
「……」
「じゃあ、私から先に行くから」
 言葉の直後、質量の大きな物が斜面を滑る大きな音。
 音はやがて静まる。理穂の体が止まったのだ。
「大丈夫だよ」
「わ、わかった」
 宗佑が幹から一歩踏み出した。
「う、うわっ」
 地面が無くなったかのようにさえ感じる。踏んだ土ごと足はさらわれ、掴む物も踏ん張る地面もなく全てと一緒に体は滑り落ちていく。
「おっと危ない」
 さして危機感のない声で理穂が宗佑を掴む。
「うっ」
 また感じる、体がはじけるような衝撃。一瞬だけまわりの木々が青白く浮かんだ。
「いってぇ」
 掴まれた右手が焼けるように痛い。
 すぐに落ち着いたが、手首に当たった時のあの奇妙な感触は鮮明に覚えている。

 

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